朝戸風に、きらきら 4/4 番外編追加



「その」と、この男に呼ばれると
途端に私は心が緩む。


「……依織。」

「ん?」

「…依織、って名前、好きだなあ、私。」

「はあ?なんだそれ。」

朝もずっと出来る限り、この男が呆れ顔になるくらい呼んできた。


『……依織。』

『なに。』

『何でもない。』

『…何なんだよ。』

『呼びたくなっただけ。』


紡いだその3音が、日に日に愛しくなっていく時間の中に、身を置いていたかった。


嗚呼、この男の名前だから好きなのか、なんて馬鹿みたいな理論を今更1人で打ちだしたら脆く笑みが溢れる。

だけど此処からは、もう、その名前は呼ばない。




「お前、やっぱりなんか変。」

「…変ですよ。」

「は?」

「……ちゃんとした部下なら、上司が仕事部屋のドアを開けっぱなしにして、"泣いてないか"、普通は、気にかけたりさせないです。」


「部下がサボらないよう見張るため」なんて嘘だ。
初日の朝、那津さんを起こそうとした私が、泣いたりしたから。

この男は、私にドアをノックをさせなくなった。




私の言葉をじっと黙って聞いている端正な顔立ちの男を自分の瞳に映したら、それだけでもう、心臓がじりじりと焦がれる。


「何の役にも立たない私がここに居座るのは、
もうずっと、変なんですよ。」

「………なんだそれ。」

「……那津さん。課長から連絡が来ました。」

「…、」

「復職しないかって、言われて、」


お願いだから、声、震えないでほしい。

自分から発しているくせにどこか他人事のように、
だけど必死にそう願ってしまう。


もう一度だけ、深く息を吸って吐く。

そして決めた言葉を最後まで言い切る、
そういう気持ちで男へと視線を上げた時だった。



「__っ、」

片腕を急に引っ張られて、あっさりと前に倒れ込んだ私の身体は直ぐに温かい何かに包まれる。

ほんの一瞬で、その熱は全身に広がった。



頬にかかった、朝は寝癖が付きやすい猫っ毛、

背中に回された逞しい腕、

ぴったりと側で感じる息遣いと心音。


抱きしめられていると自覚しただけで、ぽたりと目尻から頬を伝って零れ落ちた涙は、絶対に気付かれたく無い。


突然の状況に、元々緊張していた喉がよりひくついて、続けようとした言葉もまた飲み込まれてしまった。


「那津さん、」

「……何。」

「これは何のハグ、ですか。」



朝は、この男の”リハビリ”に付き合う。

お昼時は、たった一人の上司。
 

じゃあ、今は?

陽が落ちて、月の色が濃さを増す今この瞬間は、
この男にとって、私は何なのだろう。

 
問いかけても、那津さんは全く答えようとしない。




"嗚呼、この人になら私は。
____いくらだって触れられても、構わない。"


あの日の朝と、同じことを思う。

一度知ってしまったら、
もう、気づかないフリは出来なくなってしまった。


想いを瓶に詰め込んだとしたら
蓋なんて絶対、閉まるはずもない。

溢れて止まらない。  



自分の中で絶えず、
小さな炎が微かに、確かに、ゆらめくような。

伝えそびれたそんな恋をただ、
ずっとこの胸に抱えている。



だけど、言える筈も無い。


「心配かけてごめんなさい。もう私、大丈夫です。

_____此処を、出て行きます。」


壊れそうな言葉を、長い時間をかけて漸く伝えたら、暫くの沈黙の後「分かった」と了承するくせに。

また、私を抱きしめる腕の力が増した。


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