あの日の恋は、なかったことにして
 猪狩くんは自動販売機でペットボトルの水を買う。
 私は立ち上がってゴミ箱にグラタンの容器を捨てると、「じゃあ、お仕事がんばってね」と自動販売機の前に立ったままでいる猪狩くんに声をかけた。

「……」

 猪狩くんが、何かを呟いた。

「え、何? ごめん、聞こえなかった」
「行くなよ」

 次の瞬間、手首を強い力で掴まれた。
 そしてそのまま、猪狩くんの胸に引き寄せられた。

「……ここにいろよ」

 頭ひとつぶん背の高い彼の顔は見えないけれど、鼓動がとても速く感じる。

「行くなって言われても、仕事だし……」

 区切りのいいところまで終わらせたら帰ろうと思っていたところに、木暮ディレクターから誘われてここへ来てしまった。
 あとほんの少しなので、ちゃっちゃとやっつけたいのだ。
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