俺が優しいと思うなよ?

涙なんて、とっくに枯れたはずなのに。
さっきからじわじわと涙腺が緩んでくるのは、認めたくないが目の前の獣のせいだ。

今まで強引に迫ってきた獣は、今は私の背中に手を回して優しく抱き寄せている。
初めての感覚に、私の中の何かがプツリと切れた音がした。
その後はもう堰を切ったように、わんわんと声を上げて泣いてしまった。



月曜日の朝。昨日慌てて買いに行った紺色のパンツスーツに袖を通す。久しぶりに着るスーツは身が引き締まる思いがした。
トーストとコーヒーの朝食もちゃんと食べる。

私は成海さんから言われたとおりに、出勤時間の十分前に響建築デザイン設計事務所のあるオフィスビルの前に立った。ここは都心のビル群から少し離れた所にある三十階建てのビルだ。

昼食のおにぎりが入った黒いカバンの持ち手をギュッと握りしめる。

建築デザイナーとして三年のブランクがある。なんの下準備もしていない。
本当に、大丈夫だろうか。
私はカバンから髪ゴムを取り出して、伸びた髪を後ろで束ねた。

『三波さんも女なら、ぶつかっていく度胸があっていいんじゃない?』

特に親しくもなかった真木さんの一言が、私の背中を押した一因というのも意外な気がした。

「ぶつかっていこう」

私はオフィスビルの玄関へ一歩を踏み出した。

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