恋人ごっこ幸福論
「あっぶな、前ちゃんと見ろよ」
すぐ目の前を小さい子供が楽しそうに駆けて行った。
今、あの子にぶつかりそうだったんだ。
「ありがとうございます…」
「暗いからボーッとすんなよ」
「は、はい…」
橘先輩に抱き寄せられてる。
多分咄嗟だったからそうなってしまっただけなんだろうけど、勉強会の時より密着してると気づくと、益々ドキドキしてしまう。
「…顔赤いけど」
「き、気のせいですよ!先輩暗いから良く見えてないだけじゃないですか!」
「いつものことだし100%気のせいじゃねえだろ」
必死の誤魔化しもあっさりバレてしまうと、彼がようやくぱっと離してくれる。
見上げるといつも通りの彼のポーカーフェイスが目に入る。優しく気遣ってくれているけれど、やっぱりドキドキはしてくれないみたい。
…このままじゃまずい。さっきから何も出来ていない。
冷静に今の状況を振り返ると、何かしてもらうばかりで今日まともに自分から仕掛けられたことがない。何やってるんだ、私は。
気がつけば橘先輩は以前より広くなった各種の魚が泳ぐ水槽を観て「こっちも変わったな」なんて呟いていて、こっちがかなり必死に考えているなんて気付いていなさそうだ。
「(橘先輩のドキドキの基準って、何なんだろう)」
少しずつ意識してもらえるようになったと思ったのに、今日は全然駄目だ。
一体何が彼のそういうスイッチになってるのかな、本人だってあまり分かってなさそうだしそんなことが分かれば苦労しないけど。
私だったら、ただこうやって橘先輩の隣に居るだけで幸せなのにな。
ゆらゆら揺れる海月の水槽、テレビや図鑑でしか見たことないような淡水魚。色鮮やかで可愛い熱帯魚。
魚に詳しい訳でもないし特別好きな訳でもないのに、彼の隣で一緒に観ているだけで、ずっと観ていられるもの。