マリファナの樹
 
 それから数日が経った頃、桐子は完全に、人間から剥離した。

 一日に摂取する水分量が減り、日光浴の時間が増え、目の色が次第に薄くなり、湿度管理の一切が不要になった。確かに意識が覚醒しているのに話しかけても動じない様を、浪河はステージⅢと言った。
 言葉を介したコミニュケーションを行っていないことから、言語能力の低下が見受けられること、それから脳のCTを撮影すると彼女の脳に蔦が巻き付いているのが確認出来たからだった。

 それでも、桐子の身体は習慣のようにアトリエに向かっていた。

 人の形をした植物が、大作を完成させようとそれでも生にのたうっていた。部屋は覗いていない。隙を盗んで入ろうとすれば扉の前で立ち塞がる無表情の眼差しがそれでも俺を覚えているかもなんて、その都度妙な期待ばかりをさせられている。


「周到な女だな」

 その日もそうだ。アトリエの扉を開くと、おそらく彼女が日夜取り組んでいる遺作(仮)に、布が被せられていて中身が見えない。全長三メートル程もある大作では一人で咄嗟(とっさ)に布を被すことも出来ないので、事前に常に被せておき、その合間に入り込んで作業している図が見てとれた。

 今は、光合成の時間だろうか。窓の光を眺めて瞬きをしない。


「調子はどう」
「…」
「そんな、紫外線にばっか当たってるとシミになるぞ」
「…」
「ちょっとくらい、作品見せてくれたっていいだろ。ケチだな」


 ずっとこんなだ。ここ最近ずっと。

 まるで独居暮らしの人間がバラエティ番組に話しかけている様子に思えて、TVを普段見ないだけに、そんな未来が来るのは到底想像も出来なければ、ごめんだと思った。
 返事があるから思案するのだ。一方通行では、独りよがりになってしまう。

「…お前がそのつもりなら、地蔵にでも話すつもりで、好き放題言わせてもらう」

 桐子の隣に腰を降ろし、胡座をかいて座る。そのついでで背中まで伸びた髪を指ですくって後ろに流したら、砂のように指からすり抜けて落ちた。

 こういう場面で通常人は、恋人と過ごした時間を振り返って話しかけたりするのかもしれない。けれど、俺と桐子に、特記してそういうものはなかった。下手すれば一ヶ月平気で会わない時もあったし、それでいてさも昨日ぶりかのように人の家に押しかけてきて、手作りの餃子を振る舞われたことがあった。これだけは覚えている。桐子が俺の家に押しかけてきた、最初で最後の日。

 生焼けで、苦い顔をしたら細かいことを言うなと言われた。

 その時、絵に向かう時はあんなに繊細な作業に打ち込める芸術家も、こと得意分野の範疇から離れれば、冷凍餃子すら生焼けで彼氏に振る舞うことが出来るのだと、その時初めて学習した。


「あの時ほど残念な餃子を食ったことはない。そのくせ自分は味にうるさいなんて、桐子がいなくなった暁には腹いせでみんなに言いふらしてやるからな」

 桐子は無音だ。だからこそ、その横顔に語り続けた。

「…正直、お前から初めて花餌だって言われた時、嘘だろって驚いた反面、何故か妙に腑に落ちた。このままなんとなく生き長らえて、誰かと出逢って、恋して、結婚して、子どもが出来て。孫ができて、老後を迎える。そんな人並みの人生を送る自分を、想像出来なかった。…いや、そうならないように、って、心のどこかで願ってた。その資格がない人間だからだ」


 色んな人生がある。

 色んな時間がある。

 目に映る人間、一人一人に。友人がいて、恋人がいて、家族がある。
 そんな様子を目の当たりにするたび、吐き気がして堪らなくなった。

 春を迎え、夏を越え、秋が来て、冬になっても。なんで自分だけがここにいるのか、ずっと理解出来なかった。


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