Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

 俺は北軽井沢で“星月夜のまほろば”という別荘地を管理している須磨寺喜一の屋敷を訪問した。音大の非常勤講師を努めていた異色の経歴を持つ別荘管理人のもとにはふたつのピアノがあった。ひとつは玄関ホールに鎮座しているグランドピアノ。そしてもうひとつは応接間にある木目調のアップライト。

 須磨寺が暮らす洋館は古い造りだったが、はじめて訪れた際に見た、ホテルのエントランスを彷彿させる広大な玄関に当然のようにグランドピアノが風景に溶け込んでいた光景にはひどく衝撃を受けた。調律をしたが、調整の必要がないくらいに音域にぶれがなく、しっかり弾き手による手入れがされているのだなと理解できた。

 大広間にちょこんと置かれたアップライトの方が、日常的に弾かれていないようだ。添田にきけば、亡き奥方が嫁入り道具に持ってきたもので、主人も滅多なことがないとこちらのピアノで演奏をしないのだという。俺は玄関のグランドピアノと同様に調律を施し、仕上げとばかりに一曲披露した。ネメがデビュー時に披露したものと同じ、シューベルトのセレナーデを。このときは深く考えることなく。
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