薄氷


筋鉤(きんこう)(※手術用器具)をもっと奥まで」
結紮(けっさつ)早く! 出血を抑えて」

矢継ぎ早に執刀医の指示が飛んでいる。

仕事に没頭していれば、ことに緊張の糸を極限まで引きしぼる外科手術の場に身を埋めていれば、自分の(うち)に巣食う問題を、いっとき忘れることができる。

その日は珍しく急変患者もなく、夜勤番への申し送りをスムーズにすませて、病院を後にすることができた。

さてどうしよう、デリでちょっといいお惣菜でも買って帰ろうか。それともアイスもいいな。
日々の楽しみは、ちょっとしたご馳走、レンタルで観るDVD、それくらいのささやかなものだ。

太陽が西の端にまだ引っかかっている。
夕闇のなか駅への道を歩く。あのY字路が近づいてくる。フェンスを食い込ませたまま生きる木に、自分を投影してしまうなんて、誰にも理解されないだろう。
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