エル・ディアブロの献身

 特に暑い、夏の日だった。
 父が若い女と消え、それにショックを受けた母が自殺未遂をした。
 発見したのは、私。真っ赤な浴槽と真っ青な顔をした母を見て以降の記憶はあまりない。気付けば私は、携帯を握りしめながら病院の長椅子に座っていた。
 一命を取り留めた、母。しかし、気が触れてしまっていた。「あの人はどこ?」と、それしか言わない。私を、娘だと認識しない。
 私は、困り果てた。世間一般、という枠にあてはめれば、私の家は富裕層というものだったと思う。母方の祖父母は海外で、両親は日本で大きな会社を持っていて、家には家政婦と呼ばれる人達もいた。(ゆえ)に、不測の事態に私は弱かった。
 どうしよう。
 その言葉をただただ脳内で垂れ流しながら、海外に住む祖父母に連絡。「プライベートジェットですぐに行く」という彼らの言葉に安堵したのもつかの間、エンジントラブルにより、彼らと同乗していた操縦士と警護の方達は還らぬ人となった。
 父が消え、母が狂い、祖父母を亡くした。
 何が、起きたのか。
 わけも分からぬうちに、母は施設に送られ、祖父母の葬儀は海外で()(おこな)われ、両親と私の三人で暮らしていた家は売りに出されていた。
 無論、精神的にも経済的にも安定した今なら、大人というものに振り回されたのだと分かっているから、「家を返して」だなんだと騒ぎ立てる気はない。
 ただ、あのときは必死だった。
 家も、お金も、頼れる人もいない。それでも、先立つものはいる。
 父が出て行く数ヶ月前に、金づる呼ばわりされ、粉々に砕け散った己の恋心。それをかき集めて、さめざめと泣いている暇なんてなかったのは不幸中の幸いだろう。
 せめて、母だけでも。その思いがあのときの私を突き動かしたおかげで、昨夜まで忘れられていたのだから。
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