おじさんには恋なんて出来ない
場所を移し、上野駅に向かった。駅前の陸橋の下は薄暗いが、人はよく通るしほどほどに広さもあってやりやすかった。
だが、場所を移したものの美夜はなんとなく気乗りしなかった。目の前をタクシーやトラックがひっきりなしに通り過ぎていく。そのまま自分も流されてしまいそうだった。
リョウのように言われたことは一度や二度ではない。
ピアノをやりたいならストリートなんかせず音大に行ったほうがいい。だが、自分は音大には行かなかった。というより、行けなかった。
両親が離婚し、母親は音楽に没頭できる生活になったが、その後の生活も安穏としてはいなかった。
母親は家を空けることが多く、幼い美夜は家で留守番することが増えた。だからピアノを練習し、母親の気持ちが理解できるよう努力した。そんな美夜を母親はとても褒めてくれた。
だが、高校の時に母親にガンが見つかり、闘病生活の甲斐もなく若くしてこの世を去ることになった。美夜が高校を出たあと、音楽活動を始めてすぐの頃のことだった。
その頃には父親は別の女性と再婚していた。だから美夜は父親を頼らず、一人でなんとかするつもりだった。
しかし独学で学ぶのは大変だった。師は母親一人だけだ。そんな中でもなんとか技術を見つけようと努力した。
だが、理解者は少なかった。腕があっても中途半端な位置に立つ自分をリョウのように「お高くとまっている」と思う人間は少なからずいた。
────私、才能ないのかな。
自分は今年で二十四歳になる。アーティストとしては遅咲きだ。ピアニストとしてはそんなことないが、なんの後ろ盾もなく、入賞経験もないため先は分からない。
このまま歳を取って何も出来なかったら────。そう思うと不安になった。いや、いつも不安だ。ピアノひとつで勝負するにはあまりにも心許ない。
キーボードの電源を入れたのに、美夜はそのままぼうっと佇んだ。弾かなければ誰にも気が付かれないのに、弾くことが出来なかった。
「『MIYA』さん……?」
突然自分の名前を呼ばれ、美夜は顔を上げた。ふと、そこにあの男性が立っていて、驚いた。男性も驚いていた。
「今日ここでやる予定だったんですか?」
男性は仕事帰りだろうか。スーツ姿でオロビアンコのビジネスバックを持っていた。
告知していないからファンが知ることはない。ここを通ったのは偶然だろうか。
「あ、こんにちは。えっと、……たまたま、です」
「そうですか。じゃあ僕は運が良かったんですね」
男性は嬉しそうに笑った。「聞いてもいいですか」と言われ、美夜は頷いた。
観客が見ているのなら弾かないわけにはいかない。美夜は気持ちを切り替え、ピアノを弾くことにした。
美夜は高架下通路の柱際に。男性は通行人を避けるようにやや距離を空けて立った。他に聞いている人間はいなかった。美夜と男性の間を通行人が通り過ぎて行く。
なんとなく今日は静かな曲が弾きたいと思った。楽しい曲は弾けそうになかった。
高架下は音が反響してうるさいが、ピアノの音が目立ちすぎると通報されるので思う存分音を出せる。
だが、静かな曲を弾いているからか、アンプを道路側に向けているからか、音はそれほど聞こえなかった。
通行人は時々たまに足を止めたが、ほとんどが右へ左へと流れた。美夜は余計に落ち込んだ。これが自分の実力だ、と思い知った。
どんなにピアノを弾いても、誰も聞いていなければ意味はない。実力より、プロモーションが大事な世界だ。コネも何もない自分はそもそも売れる可能性なんてカケラもなかった。
弾き終わるとやっと止まった何人かが拍手をした。
聞いてくれる人間はいたが、そこから先につながる人間は少ない。ほとんどが演奏が終わると駅へ通り過ぎた。
なんだか情けないな、と思っていると男性が近付いてきた。
「お疲れ様です。今日はなんだか悲しい曲でしたね」
確かに先ほど引いた曲は静かで切ない曲だった。だが、悲しいと思われたのは自分がそういう気持ちだっただろうか。
言い当てられたような気分になって、また落ち込んだ。
「ちょっと、落ち込むことがあって」
────何言っているんだろう。お客さん相手に。
美夜は自分を叱責した。男性が穏やかな雰囲気だからか、つい話してしまった。
マイナス面を見せるのは良くない。自分はいつでも前向きでいないといけない。観客だってそれを求めてる。観客は音楽に楽しみを求めてきているのだから。
「……僕は君の音楽が好きです。君が楽しそうにピアノを弾いている姿を見ると元気になれます。だから、元気になってください」
男性は恥ずかしそうに言うと、「なんて、押し付けがましいですね」そう付け足した。
なんていい人なんだろうか。美夜は情けない演奏をした自分が恥ずかしくなった。
思えば、この男性は出会った時からこんな感じだ。自分を褒めてくれた。お世辞ではなく、本心からそう言ってくれている。
────こんな人が恋人だったらいいのに。かなり年上だけど。
ファンにこんなことを思うのは失礼だろうか。きっと年上だからだろう。
「……聞いてくれてありがとうございました」
「いえ、僕の方こそありがとうございます。帰りに聞けるなんてラッキーです」
「まさかここで会うとは思いませんでした。えっと────」
美夜が視線を向けると、男性は少ししてああ、と気付いた。
「そういえば、名乗ったことがありませんでしたね。僕は日向辰美といいます」
ひゅうがたつみさん、と心の中で繰り返した。それがこの優しい男性の名前だ。
だが、場所を移したものの美夜はなんとなく気乗りしなかった。目の前をタクシーやトラックがひっきりなしに通り過ぎていく。そのまま自分も流されてしまいそうだった。
リョウのように言われたことは一度や二度ではない。
ピアノをやりたいならストリートなんかせず音大に行ったほうがいい。だが、自分は音大には行かなかった。というより、行けなかった。
両親が離婚し、母親は音楽に没頭できる生活になったが、その後の生活も安穏としてはいなかった。
母親は家を空けることが多く、幼い美夜は家で留守番することが増えた。だからピアノを練習し、母親の気持ちが理解できるよう努力した。そんな美夜を母親はとても褒めてくれた。
だが、高校の時に母親にガンが見つかり、闘病生活の甲斐もなく若くしてこの世を去ることになった。美夜が高校を出たあと、音楽活動を始めてすぐの頃のことだった。
その頃には父親は別の女性と再婚していた。だから美夜は父親を頼らず、一人でなんとかするつもりだった。
しかし独学で学ぶのは大変だった。師は母親一人だけだ。そんな中でもなんとか技術を見つけようと努力した。
だが、理解者は少なかった。腕があっても中途半端な位置に立つ自分をリョウのように「お高くとまっている」と思う人間は少なからずいた。
────私、才能ないのかな。
自分は今年で二十四歳になる。アーティストとしては遅咲きだ。ピアニストとしてはそんなことないが、なんの後ろ盾もなく、入賞経験もないため先は分からない。
このまま歳を取って何も出来なかったら────。そう思うと不安になった。いや、いつも不安だ。ピアノひとつで勝負するにはあまりにも心許ない。
キーボードの電源を入れたのに、美夜はそのままぼうっと佇んだ。弾かなければ誰にも気が付かれないのに、弾くことが出来なかった。
「『MIYA』さん……?」
突然自分の名前を呼ばれ、美夜は顔を上げた。ふと、そこにあの男性が立っていて、驚いた。男性も驚いていた。
「今日ここでやる予定だったんですか?」
男性は仕事帰りだろうか。スーツ姿でオロビアンコのビジネスバックを持っていた。
告知していないからファンが知ることはない。ここを通ったのは偶然だろうか。
「あ、こんにちは。えっと、……たまたま、です」
「そうですか。じゃあ僕は運が良かったんですね」
男性は嬉しそうに笑った。「聞いてもいいですか」と言われ、美夜は頷いた。
観客が見ているのなら弾かないわけにはいかない。美夜は気持ちを切り替え、ピアノを弾くことにした。
美夜は高架下通路の柱際に。男性は通行人を避けるようにやや距離を空けて立った。他に聞いている人間はいなかった。美夜と男性の間を通行人が通り過ぎて行く。
なんとなく今日は静かな曲が弾きたいと思った。楽しい曲は弾けそうになかった。
高架下は音が反響してうるさいが、ピアノの音が目立ちすぎると通報されるので思う存分音を出せる。
だが、静かな曲を弾いているからか、アンプを道路側に向けているからか、音はそれほど聞こえなかった。
通行人は時々たまに足を止めたが、ほとんどが右へ左へと流れた。美夜は余計に落ち込んだ。これが自分の実力だ、と思い知った。
どんなにピアノを弾いても、誰も聞いていなければ意味はない。実力より、プロモーションが大事な世界だ。コネも何もない自分はそもそも売れる可能性なんてカケラもなかった。
弾き終わるとやっと止まった何人かが拍手をした。
聞いてくれる人間はいたが、そこから先につながる人間は少ない。ほとんどが演奏が終わると駅へ通り過ぎた。
なんだか情けないな、と思っていると男性が近付いてきた。
「お疲れ様です。今日はなんだか悲しい曲でしたね」
確かに先ほど引いた曲は静かで切ない曲だった。だが、悲しいと思われたのは自分がそういう気持ちだっただろうか。
言い当てられたような気分になって、また落ち込んだ。
「ちょっと、落ち込むことがあって」
────何言っているんだろう。お客さん相手に。
美夜は自分を叱責した。男性が穏やかな雰囲気だからか、つい話してしまった。
マイナス面を見せるのは良くない。自分はいつでも前向きでいないといけない。観客だってそれを求めてる。観客は音楽に楽しみを求めてきているのだから。
「……僕は君の音楽が好きです。君が楽しそうにピアノを弾いている姿を見ると元気になれます。だから、元気になってください」
男性は恥ずかしそうに言うと、「なんて、押し付けがましいですね」そう付け足した。
なんていい人なんだろうか。美夜は情けない演奏をした自分が恥ずかしくなった。
思えば、この男性は出会った時からこんな感じだ。自分を褒めてくれた。お世辞ではなく、本心からそう言ってくれている。
────こんな人が恋人だったらいいのに。かなり年上だけど。
ファンにこんなことを思うのは失礼だろうか。きっと年上だからだろう。
「……聞いてくれてありがとうございました」
「いえ、僕の方こそありがとうございます。帰りに聞けるなんてラッキーです」
「まさかここで会うとは思いませんでした。えっと────」
美夜が視線を向けると、男性は少ししてああ、と気付いた。
「そういえば、名乗ったことがありませんでしたね。僕は日向辰美といいます」
ひゅうがたつみさん、と心の中で繰り返した。それがこの優しい男性の名前だ。