おじさんには恋なんて出来ない
「今日は……どうする?」

 食事が終わったあと、辰美が尋ねた。

 どうする? というのは泊まるか、泊まらないかという意味だろう。今日は泊まるつもりで用意して来たわけではない。だが、このまま帰るのはなんとなく不安だった。

「泊まっても……いいですか?」

「いいよ。じゃあ、着替え出しておくから」

 前回泊まった時は緊張していたが、今日はまったく別の意味で緊張している。

 なぜこうも不安なのだろう。「有野さんは辰美さんにとってどういう人ですか」なんて、無理だ。絶対に聞けない。

 辰美の反応を見る限り、やましいことはないのだろう。だからそこには浮気の事実はないのだと思う。

 だから今不安なのは、「辰美が浮気しているかもしれない」心配ではなくて有野が辰美を────。

「美夜さん?」

「え?」

 見れば、辰美が着替えを差し出したまま不思議そうに見ていた。

「あ……えっと?」

「お風呂、どうする? 先に入るか?」

「お、お先にどうぞ」

 辰美は美夜に着替えを渡すと、バスルームの方へ行った。

 ────まったく、なにをぼうっとしているのだろう。こんなことでは先が思いやられる。

 美夜は気持ちを落ち着けようとベッドルームに入った。付き合ったばかりで甘い雰囲気を味わう余裕は、今日はなさそうだ。もっとも、辰美と自分がそこまで深い仲になるにはまだ時間がかかりそうだが────。

「……あ」

 ふと見れば、書斎机のパソコンの画面が点いたままになっていた。電源を切り忘れたのだろうか。それともまだこれから仕事をするつもりなのか。

 その時、美夜の脳内によからぬ考えた浮かんだ。好奇心。興味本位。そして、若干の猜疑心。

 美夜の足は自然とパソコンに近づいていた。

 仕事のパソコンだろうか。キーボードのすぐ下に番号が振ったラベルが貼られている。職場から支給されているものかもしれない。

 画面にはメール画面が映っていた。タイトルと差出人。そして本文が横に表示されている。それを上から眺めた。

 そしてすぐ、その名前を発見した。「有野」からのメールは数件あった。

 心臓がどくどくと音を立てている、心拍数が上がっていくのが分かった。

 ────勝手に見るのはよくない。分かってるけど……。

 美夜は一度扉の方を見た。辰美が出て来る気配はない。タッチパッドを操作し、有野から来た一番最近のメールを開けた。すでに既読しているものだ。

 上からゆっくりと、そして丁寧に精読していく。

『日向課長

 お疲れ様です。
 藤宮商事の案件ですが、
 無事入稿終了したと連絡がありました。
 入稿した資料は添付の通りです。
 お手数ですがご確認よろしくお願いいたします。

 有野』

 最後まで読んだ瞬間、ほっと胸を撫で下ろした。どうやら、ただの業務メールだったようだ。

 ────やっぱり、ただの考えすぎだったのかな。

 画面を元に戻し、ホーム画面を表示した。

 それ以上は見る気などなかったが、画面に残したままの視線が再び、何か見つけた。

『ありがとうございます』というタイトルのメール。

 それが気になったのは直感だ。それが有野からでなければ、このままパソコンから離れていただろう。だが、そのメールは再び美夜を画面に縛りつけた。

 恐る恐るメールを開く。

『日向課長

 お疲れ様です。
 今日は誘ってくださってありがとうございました。
 素敵な演奏でとっても楽しかったです。

 銀座にピアノの演奏を聴きながら食事できるお店を見つけたので、
 もしよかったら今度みんなで行きませんか?
 ジャルダンみたいなかしこまったお店じゃないので、気軽に楽しめると思います。
 
 有野』

 そのメールを見た瞬間、女性の第六感は本当によく当たるんだな、と思った。

 たぶん、有野と話した瞬間からだ。この嫌な感情が芽生えたのは。

 腹が立つような、悲しいような、裏切られたような、そんな感情がどす黒く胸の中で広がっていく。

 メールの日付を見ると、自分が代官山でライブをした日だった。時刻は夜。ライブが終わった後で送ったものだろう。

 ────あれ? ジャルダンって……。

 なんだか見覚えのある名前だと思った。少し考えて、それが辰美に連れて行かれた店の名前だと思い出した。

 忘れもしない。あの場所で辰美に言われてピアノを弾いて、そのおかげで仕事がもらえたのだ。だが────。

 あの店は確か、会社の人に教えてもらったと言っていた。そしてその人物は多分────有野だ。

 美夜はパソコンの画面を元に戻した。嫌な感情が止まらなくなって、たまらず鞄を持って部屋を飛び出した。

 このまま辰美と一緒にいるなんて出来そうにない。一緒にいたら多分、泣いてしまう。いや、すでに泣きそうだ。

 気持ちはどこか呆然としていて、そこか焦っていた。ショックも受けている。この感情の名前は「嫉妬」だ。
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