ふたつ名の令嬢と龍の託宣
「旦那様、お手が止まっておいでですよ」

 マテアスの冷ややかな声で我に返る。ジークヴァルトはいつの間にかその手を止めて、リーゼロッテを食いいるように見つめていた。

 眉間にしわを寄せてから、ジークヴァルトは手元の書類に目線を戻した。しかし、意識が集中できずに、視線が同じ文章を行ったり来たりを繰り返す。

「はぁ、仕方ありませんね。お疲れのご様子ですから休憩にいたしましょうか」

 マテアスがため息とともに立ち上がり、紅茶を淹れに執務室を後にした。最近の(あるじ)の行動を(かんが)みて、部屋の扉は開けたままにする。

 ドアを全開にしたのは、行きかう使用人へのサービスだ。みな主人と未来の若奥様のいちゃつきぶりを出歯亀(でばがめ)したいのだ。

 それを見送ったジークヴァルトは書類をぽいと机に放りだして、リーゼロッテの座るソファへ移動した。

 リーゼロッテは余程意識を集中しているのか、ジークヴァルトが隣に腰かけたことにも気づかない。目の前の異形に手をかざしたまま、囁くように何事かをつぶやいている。

 こんなとき、彼女はいつも無防備だ。

 閉じた瞳。薔薇色に染まる頬。そこに影を落とす長い睫毛。うっすらと開いた小さな唇。艶やかな蜂蜜色の長い髪に、その隙間から覗く形のいい耳。ほっそりとした白い首に華奢な肩。折れそうなくらい細い腰。それなのにとても柔らかい体。

 ――触れたい。手に入れたい。この腕に閉じ込めたい。

 ざわつくような欲望にジークヴァルトの鼓動がどくりと鳴った。

 生まれながらに押し付けられた託宣に、反発を憶えながらも今日までやってきた。違えることが叶わない託宣だからこそ、その思いと裏腹に表面上は従ってきたのだ。

 それなのに、湧きおこるこの衝動は何なのか。最近ではリーゼロッテを前にすると抑えがきかないほどの激情が支配する。ジークヴァルトは動揺を隠せなかった。

 彼女は龍の決めた託宣の相手だ。いずれは自分のものになる。今、この手を伸ばしていけない理由があるというのか――

< 503 / 678 >

この作品をシェア

pagetop