意地悪な副社長との素直な恋の始め方


温かく、固いものに包み込まれたかと思うと、頭上で押し殺された呻き声がする。

女性の悲鳴。バタバタと走り去る足音。
そして、何かが滴り落ちるような音が続く。


「大丈夫か? 偲月。怪我は?」


よく知っている声と嗅ぎ慣れたムスクの香り。
その中に、異質な匂いが混じっている。


「し、てない……」


わたしを抱き込んでいた腕が緩んだ隙に、振り返った。

そこには、痛みを堪えているような、それでいてホッとしているような、何とも言えない顔をした朔哉がいた。

彼のスーツの右袖は切り裂かれ、手首から覗く白いワイシャツを染めながら滴り落ちるのは……。


「さ、くやっ!?」

「大したことはない」

「大したことあんだろうがっ!」


朔哉の言葉を否定したのは、隣の部屋から飛び出して来た男性だった。


「止血するから、腕貸せ!」

「大丈夫だ」

「大丈夫じゃねぇんだよ!」


朔哉を一喝したのは、Tシャツにパンイチ姿の男性。

ドアから顔を覗かせていた半裸の女性から受け取ったタオルで、手際よく朔哉の右腕と右手を縛り上げる。


「救急車、呼ぶぞ」


その意見に、異存はない。
朔哉の怪我は、どう見ても一晩寝れば治るようなものではなかった。

しかし、朔哉は男性の申し出を拒否した。


「呼ばなくていい」

「あのなぁっ! 犯人も逃げたんだろ? 警察と救急車は必須だろうが!」

「騒ぎにしたくない」


入社式、監査、株主総会と注目度が高まるいま、ゴタゴタを起こすのは極力避けたいという彼の考えは理解できた。

副社長という立場にある彼が、マスコミにスキャンダルをまき散らされるようなことがあれば、少なからず仕事に――会社に影響が出る。

けれど、だからといって怪我を放置するなんてあり得ない。


「でもっ、怪我っ!」

「そのうち治る」


朔哉の投げやりな言葉に、男性が呆れたように溜息を吐いた。


「んなわけねーだろうが。そんなに救急車を呼びたくないなら、俺と一緒に来い。他人の事情に首を突っ込む気はないが、怪我人を放置するのは医者としてどうかと思うんでね」

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