ミニトマトの口づけ

「遅くなりましたけど、ご出産おめでとうございます。これ、職場のみんなからです」

先生は一応代表者らしく、さっきショッピングモールで買った子ども用の靴とケーキを新川さんに渡した。

「ありがとうございます。靴かな? 助かります」

「少し大きめを買ったので、三歳くらいになったら使ってください」

先生はさらりと、店員さんが言っていたセリフをそのまま口にした。
私の冷めた視線に気づいているだろうに、やはりまったく意に介さない。

「お! かわいい。しかも高いやつだ。よかったねぇ、芹菜」

“芹菜ちゃん”と呼ばれた赤ちゃんは、靴など見向きもせず、何もない宙の一点を見てモゾモゾ動く。

「芹菜ちゃん、見てもいいですか?」

「もちろん、どうぞどうぞ」

洗面所をお借りして手を洗うと、新川さんから芹菜ちゃんを受け取った。
新川さんは軽々と抱き上げるのに、人間というものはずっしりと重たく、身体がこわばった。

「うわー、こわい……壊しそう」

「あははは。大丈夫、大丈夫。意外と丈夫なものだよ」

寺島先生は私のすぐうしろから覗き込んだ。

「全然人見知りしませんね」

「そうですね。あとひと月くらいしたら泣くようになるかもしれないけど」

何でもいいのだ、会話の内容など。
腕の中にある圧倒的な存在に比べたら、言葉はささいなものだった。
未来がまるごと詰め込まれた繭には、降参する以外ない。

私は振り返って先生の腕に芹菜ちゃんを押しつける。

「もう無理。先生お願いします」

少し意地悪をしたつもりだったのに、先生は存外余裕で抱き上げた。

「軽いですね。何キロですか?」

「この前測ったとき、5.6キロだったかな。先生、慣れてますね」

「姪がふたりいるので、かなり鍛えられました」

会話する余裕まである。
首も据わってますね、よく寝てくれるし助かってます、やっぱり女の子はかわいいなぁ、先生になら芹菜を嫁に出してもいいですよ、俺が旦那さんに殴られちゃいますよ。
カフェで、隣の席の会話を聞いているような感覚だった。
近くにいるのにまったく関わりのない話。
コーヒーメーカーの音が遠くで聞こえる。

「お茶淹れるから、適当に座って。散らかっててごめんなさい」

部屋の中は片付けられていたけれど、棚に入り切らないおもちゃが壁際に積まれていて、本棚は上の隙間にまで絵本が詰め込まれている。

「今日、上のお子さんたちは?」

「二番目は保育園だから、五時に迎えに行くんだけど、一番上は二年生だから、もう少しで帰ってきちゃうな」

「あの子がもう二年生ですか。早いな」

「早いよねぇ。二番目だって、来年にはランドセル買わないと」

新川さんが最初に産休を取ったのは、私が仕事にも慣れ、生活に余裕を持てるようになった頃だった。
あの時生まれた赤ちゃんは、立って、歩いて、学校に通うようになったらしい。
同じだけの時間を生きても、大人の毎日にあまり変化はない。

むずかり出した芹菜ちゃんをあやして、新川さんは立ったままコーヒーを飲んでいる。
いつものことだそうだ。
< 22 / 37 >

この作品をシェア

pagetop