ミニトマトの口づけ

「まだ集合時間まで間があるから、少し休んでいきましょう」

おばあちゃんが指差したのは、公園西口の向かいにあるカフェだった。
気を使わせてしまったと、また気持ちが沈む。
かといって断る判断さえできず、私は言われるままにカフェへと向かった。

歩道のほんの1cmの段差でも気になる。
これまで平坦だと思っていたところが坂道だったと思い知る。
青信号が短く感じる。
車椅子の世界は、私の知っていた地図とはまるで違っていた。

ようやくたどり着いた店のドアは階段の上にあり、スロープで上れるようになっていた。
ところが、そのスロープを車が塞いでいる。
私ひとりで車椅子を抱えて階段を昇ることは、不可能だった。

「ごめんなさい。戻りましょうか」

おばあちゃんの方からそう言ってくれた。
謝罪は私がするべきだったのに。

疲れた身体は、思考も悪い方向へ落としていく。

このひとは、あと何回桜が見られるんだろう。
万が一これが最後だったら、その大切な一回を台無しにしてしまったかもしれない。

「こんにちは。もしかしてお客さまですか?」

涙をこらえる私の頭の上で、朗らかな声がした。
若い男性が笑顔でドアから半身を出している。
肘の上までまくられたシャツが、青空の下でことさら白く見えた。
黒いキッチンエプロンがよく似合う。

「あ……はい」

震える声で返事をして、私は何度もうなずいた。

「あー」

スロープ前の車を見て、彼は顔をしかめた。
それからナンバーを口の中でつぶやくと、

「少々お待ちいただけますか?」

と店内に戻った。
その時間は五分に満たなかったと思うけれど、会話もなく待たされる身には長く感じる。

「私、やっぱり帰るって、言ってきます……ね」

耐えきれなくなってそう切り出したとき、男性はテーブルを抱えて戻ってきた。
そのテーブルを階段脇のスペースに置く。

「申し訳ありません。あの車、うちのお客さまのものではないみたいで、持ち主が見つかりませんでした」

少ない駐車スペースには車がぎっしり駐車されているが、無断駐車も多いらしい。

「もしよろしければ、こちらでお伺いします。日陰だから暑くはないし、寒いようなら膝掛けもお貸しできますので」

椅子も設置して、男性は笑顔でそう言った。

「今店には、私と店長しかいないので、車椅子を運んで差し上げられないんです。壊してしまっても良くないし。こんなところで失礼かとは思うのですが、いかがでしょう?」

主導権のない私は黙っておばあちゃんに視線を向けた。

「せっかくだし、お願いしてもいいかしら?」

おばあちゃんは、声を弾ませて言った。

「もちろんどうぞ。一応桜も見えますから。天気よくてよかったですね」

老眼で見えないというおばあちゃんに代わり、私がメニューを読み上げた。

「かへらて? それって何?」

「カフェオレです。コーヒーにミルクの泡が乗ってます」

「泡? 食べられるの?」

「はい。とてもおいしいです」

「じゃあ、それにしてみようかな」

そこはコーヒー専門店で、メニューの三分の二がコーヒー、残り三分の一にケーキと軽食が載っていた。

「カフェラテ、ホットでふたつお願いします」

「かしこまりました。お待ちくださいませ」

店内はそれなりに混んでいるし、ホールのスタッフは先ほどの男性ひとりだったけれど、外にいる私たちにも細やかに気を配ってくれていた。
< 4 / 37 >

この作品をシェア

pagetop