誘惑の延長線上、君を囲う。
聞きたいけど、聞かない。無理に踏み込まない。私は日下部君の話を適当に聞き流した振りをして、無関心だとアピールする。本当は聞きたくて仕方ないけれど、私は家族にはなれないのだから我慢。日下部君の内情を知ったら、更に親密になったと勘違いしてしまうから、我慢、我慢。

温泉旅館に着くと若女将が笑顔で出迎えてくれて、部屋へと戻る。客室は特別室を予約出来たので、部屋に露天風呂が付いている。だけれども、とりあえずは旅館の温泉に入ろうか、と言う事になり浴衣を持って出発。

浴衣は五種類の中から選べたので、落ち着いた色柄を選んだ。色はくすんだ水色で、柄は青と紫の紫陽花。浴衣なんて、何年ぶりに着るのだろうか?最後に来たのは高校生?そんな事を考えながら、ゆっくりと時間をかけて温泉を堪能する。露天風呂から見える自然がからマイナスイオンを浴びているような気がして、身体中から邪心が浄化されるような感覚に陥った。

「温泉どうだった?」

「お肌ツルツルになったみたいだよ」

先に部屋に戻っていた日下部君は、窓際の椅子に座り、瓶ビールを飲んでいた。グレーの浴衣が物凄く似合っていて、惚れ直してしまいそうだ。

「温泉に入らなくてもツルツルだろ。……琴葉、浴衣が凄く似合ってる。こっちに来て、一緒にビール飲もう」

そう言われて、ドキドキしながら日下部君の目の前の椅子に座る。窓際から景色を眺めながらのビールは最高に美味しい。「あー、お風呂上がりのビールって、何でこんなにも美味しいんだろうね!」

「琴葉はビールを飲んでいる時が一番幸せそうだな」

今の幸せは日下部君に再会出来た事、学生時代に叶わなかった恋人同士の真似事をしている事、ビールが美味しい事。いつか、不幸になるとしたら、この全ての時間が消えて無くなるという事。ビールは美味しいけれど、日下部君と一緒に飲む事を覚えてしまった今、一人では美味しくないよ。
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