水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~




 最後の言葉は、口の動きだけだったので正確ではないかもしれない。
 けれど、あの表情から、そしてあの状況からして、自分の意志で飛び降りたわけではないはずだ。
 たとれ、自分で崖から落ちたのだとしても。


 強要された。
 それしか考えられない。
 では、何故?

 あの女が何か罪でも犯した犯罪者なのだろうか?そうだったとしても、どうして白無垢を着る必要がある?そして神主である老人や神に仕える者たちが同行するのか。何かに取り憑かれていたのだろうか?

 考えても結論が出るわけでもない。

 ハーッと息を吐きながら、水を飲もうと桶へと手を伸ばした。が、そこにはほとんど水が残っていない。
 川に取りに行かなけらばいけない。そう、あの白無垢の女が落ちた川に、だ。


 「そうだ。生きているかもしれないから見に行くだけなら……」


 そう思って重い腰を上げる。
 あんな高い場所から落ちて助かるわけもない。そう心の中ではわかっている。
 死んでしまったとしても、きっと埋葬する人などいないのだろう。だったら、俺がやればいい。

 そんな風に思って小雨が降りしきる中、#菅笠__すげかさ__#を被り、白無垢の女の死体があるだろう川へと向かった。その手には水を入れる桶と桑、そして弓矢を腰に掛けて矢鏡は小走りに下った。


 
 ちょうど崖の下にある川辺にやってきた矢鏡は、愕然とした。



 白無垢の女の死体は、どこにもなかった。
 あったのは、血と雨水で濡れた真っ白な白無垢、ただそれだけが残されていたのだった。








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