Ephemeral Trap -冷徹総長と秘めやかな夜-
──行かなきゃ。
振り向いて、マンションに入らないと。
変に思われちゃう……。
そう思うのに、身体が言うことを聞いてくれなくて。
こちらに向いたまま動く気配のない彼の足先を見つめた。
きっと、わたしが中に入るまで待ってくれているんだ。
トク、トク、と次第に早まっていく脈の音が、はっきりと自分で聞き取れる。
……ふと、頬になにかが触れた。
ピクリと肩を揺らしてすぐに、彼の綺麗な指に触れられたのだと認識した。
優しくなぞられて、全身の神経が頬に集中する。
戸惑いのあまり視線を上げると、彼の手はゆっくりと離れていった。
「あんた、……危機感ってやつが、足りねーわ」
コツ、と革靴が鳴って、ふたりの距離が縮まる。
彼の香水なんだろうか。
先ほどと同じ甘い香りがわたしを包み、頭の芯がジン……と熱を帯びた。
「知らない男に、カンタンに家教えんのはよくないな」
「……え……」
「俺だけにしとけよ」
囁くように言うとくすりと笑って、彼は一歩、元の位置へと下がった。
ついさっきまでろくに目を合わせることができなかったのに。
わたしは心臓を鷲掴みにされたように、夜空のような深い瞳に呑み込まれて……。
その場から動けなくなってしまった。