極上御曹司は懐妊秘書を娶りたい
「近いうちに、辞めさせていただきたいんです」
 終業後の社長室でそう切り出した私に対し、城阪社長は驚いたように目を見開いてみせた。一拍置いて「理由は」と端的に尋ねてきた彼に対し、私は元々用意していたそれらしい理由をつらつらと並べ立てる。
「その、母が身体を悪くしてしまって。地元に戻らなければならなくなったので……」
 本当は、私にはもう母と呼べる人はいない。実家にいるのは父と、父の再婚相手だけ。
 成人してから一度だって話したことのない彼らを理由にしたのは、せめて嘘をつくときの罪悪感を減らそうという、私の浅ましい保身だった。この辺りの事情を城阪社長に伝えたことはないから、きっとこの嘘が見抜かれることはない、――――
「前に何かの話の折に、君の地元は関東圏だと聞いたと思うが……会社に通えないような距離なのか?」
「あ、いえ……その、」
「もしそこから通うのが難しい、もしくは母親の介護で時間がとられるというのなら、時短勤務でも構わない。考え直してくれないか。……君を手放すのは惜しい」
「え、」
 あまりにストレートな台詞をぶつけられ、こんなときだというのに正直な心臓が露骨に弾む。じわりと熱の滲む頬を隠すように俯けば、視界にはこちらに向かって歩み寄ってくる革靴が映り込んだ。
「……駄目か?」
「それは……」
「それとも、――――他に何か理由があるのか?」
「!」
 痛いところ、しかも図星を突かれてときめいていた心臓がぴたりと動きを止める。ひゅ、という短い呼吸音が微かに鳴った瞬間、目の前の彼が何かを読み取ったかのように目を眇めた。
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