sugar spot
吉澤さんの話を聞いた後だからか、男からのメッセージを確認して、どうしても手が動いていた。
声を、聞きたかった。
荷物は、もう何度も確認している。
敷波さんのところへ行って、説明する資料だって、
ちゃんとバッグに入れてきた。
だけど。
「…ありさと。」
"聞こえてる。"
名前を呼んだ瞬間に、ぶっきら棒だけどちゃんと返ってくる返事に酷く安心してしまう。
瞼の熱い膨らみを感じて、駅へのびている道の脇へと寄る。
今にも泣きそうな弱さを絶対悟られないと、必死に片手で瞼を押さえて深く呼吸をした。
「頑張って、くるから。」
”うん。”
「……、そしたら、また、
中華屋さん、連れて行ってくれる?」
だけど、私は存外、欲張りだったらしい。
___この男との約束も、持っていきたい。
いよいよ溢れた涙が、折角アイロンをかけたジャケットに染みたりしないよう、すぐに慌てて拭う。
どうしても頑張らないといけない局面なんか、
誰にでもあるのだと思う。
怖さがあっても、嫌だなあって思っても。
たった1人、拙い足取りで、よろけたってなんだって、なんとか踏み出さないといけない、そういう局面。
ちひろさんや古淵さん、亜子さん、瀬尾さん、
それに、南雲さん。
先輩達にも、同じようにあったのかな。
___そして、受話器越しに私の言葉を
ただ聞いているこの男にも、あるのかな。
”どんだけ中華好きなんだよ。”
「……、」
私が伝えたいのはそこじゃないわ、なんだこの男。
やっぱりアホなのだろうか。
表情が確認出来ないのに、珍しく愉しげな声色にも余計先程の勇気を無下にされた気持ちになって、そこに誰も居ないのに、顔つきがみるみる険しくなった。
「もう良い」と投げやりに伝えようとしたら
"中華屋の前に、ライブハウスも連れてく。"
と重ねられて、言葉が止まる。
『昔あのバンドが行ってた北千住のライブハウスの壁に、メンバーのラクガキがある。』
『……え!?』
あの時の会話を思い出して、スマホは耳にくっつけたままに、目を瞬いた。
「…近いの?」
"北千住と千駄木、千代田線で一駅。"
「ふうん。」
駅の名前は辛うじて聞いたことがあったりしても、全然、その点と点は線になって繋がったりしない。
やはり私には全く東京の土地勘が無い。
"田舎者。"
「煩いな。」
"…だから、地図広げて調べるんだろ。"
「……、うん。」
男からの言葉が、今の話に
限ったものじゃないと分かる。
私は全然、完璧じゃ無い。
__"ポンコツな自分が起こしそうなリスクを最小限にするための先々の準備とか。
失敗した後も、何ができるかとか。
そういうこと、一生懸命考えます。"___
だけど、「私」だから、
出来ることがあるって信じていたい。
「ライブハウスのラクガキ、
仕方ないから確かめてあげる。」
"あ、そ。"
ぐい、と目尻あたりを拭いあげて伝えると、あまりにあの能面らしい返事を受けた。
そして「梨木」と、名前を呼ばれて、
その声が優しく耳に入り込んだ。