5時からヒロイン
一階に着いて、ここからが羞恥の始まり。社長が私を抱き上げてエレベーターから降りて来れば、周りは騒然となった。受付嬢は立ち上がりキャーキャー言って、ロビーにいた社員達は遠巻きに私たちの行く先を見ている。
先頭に神原さんが歩いて行くと、部長は小走りで追いかけた。
正面玄関には社長の私用の車が止めてあった。

「私が運転しましょうか?」

運転手の斎藤さんが社長の車を移動して、キーを渡しながら聞いていた。私は抱っこされたまま。もう、どうにでもなれと投げやり。

「自分で運転します。ありがとうございました」

斎藤さんが助手席のドアを開けると、社長は私を乗せ、シートベルトまでかけてくれた。社長にそこまでさせる女は私以外にいないと思うなんて、呑気なものだ。

「水越さんのバッグは後部座席に置きましたから」
「神原さん、ありがとう。迷惑かけてごめんなさいね」
「その足では無理ですよ。内出血みたいになってますよ? ご無理はしないでください」
「本当ね……後はよろしくね」
「分かりました」

使命感から出勤したけど、結果的に迷惑を掛けてしまうことになって、本当に申し訳ない。
怪我をした理由は、墓場まで持って行こうと心に誓う。

「水越くん、今日は休んでいいからね」

部長がしおらしく言ったけど、社長がいるからだ。

「部長、私が休んだら業務は部長がしてくれるんですね。ありがとうございます。本当に助かっちゃいます」
「……先生が仕事をしてもいいとおっしゃったら、戻って来なさい。いいね?」

絶対にそう言うと思った。社長が誰よりも苦手なのに、社長の前でいい顔をしようとするからよ。

「行くぞ」

運転席に座ってハンドルを握った社長が言った。

「よろしくお願いします」

部長と神原さんに見送られ、私は病院に向かった。

「寒くないか?」
「大丈夫です」

裸足の私を気遣ってくれたのだろう。朝晩はひんやりすることが多くなって来たけど、暖房を入れるほどじゃない。それでもさすがに裸足は寒くて、指先は冷たくなっている。
社長が車を運転する姿を、間近で見るのは初めてで、その姿に惚れ惚れしちゃう。
朝はどんよりとした気分だったけど、今はなんとか上がりつつある。
ビックリした顔で私の「退職宣言」を聞いていたけど、どう思っているのだろう。感情が読めない人だけに、不安になる。衝動的に言ってしまったようなところがあって、少しだけ後悔している部分もあるけど、人生の分岐点は今のような気がする。
今どき転職をしてない方が珍しい。秘書は幅広い業務があって、転職にはいいと言われて来たけど、そうだろうか。転職をしたことが無いから分からないけれど、個人として厚みを持たせるには、やっぱり経験だと思う。
社長が私を好きだったら、会社を辞めたって関係は続く。すっぱりと切れてしまえば、あの夜のことは、やっぱりワンナイトラブだったんだと、割り切ることだってできるんだ。
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