ここではないどこか

 疲労困憊な身体を引きずりながら自宅玄関の扉を開ければ、パタパタとスリッパを鳴らして香澄さんが出迎えてくれた。

「おかえり!お疲れ様」
「ただいま」

 このやりとりにもさすがに慣れたはずなのに、たまにくすぐったくなって照れてしまうのだから、俺は重症だな、と思う。

▼▲
 付き合ってすぐ、俺は事務所所有のマンションから退去することを決めた。元々デビュー4周年が過ぎたらそうしようか、とメンバーで話し合っていたこともあるが、なにより香澄さんとの逢瀬に2人が同じマンションに住むということは絶対条件だった。
 セキュリティが厳重な物件は比例して家賃も高い。香澄さんの懐事情を勝手に心配し、「俺が家賃払うから」と引っ越しを提案すると香澄さんは、失敬なやつだな、と言わんばかりの冷めた目を俺に向けた。

「そんなことまでさせられない。でも瑞樹くんに私が住んでるマンションに引っ越ししてきてもらうのも、無理だしねぇ」

 確かに、悪いとは言わないが香澄さんの住むマンションは芸能人が住むにはセキュリティが多少心許なかった。

「……!じゃあ、一緒に住みますか!」

 名案だ!というかこの選択しかない!と俺が閃いたままを言うと、香澄さんは目を丸くした。情報を処理しきれず固まったままの香澄さんに俺は追い討ちをかける。

「ご両親にも同棲の挨拶をさせてくださいね」

 我ながらアイドルよろしく、必殺スマイルを献上できたと思う。香澄さんは目を白黒させながらも、頬を染め、少女のように微笑んだ。


 善は急げと、俺の仕事が比較的早く終わる日に香澄さんの実家へ同棲の挨拶をしに行った。
 香澄さんのご両親、特にお母さんは本当に喜んでくれて、俺はまた香澄さんを幸せにする覚悟を強くした。

 
 メンバーにも付き合ったことと同棲をすることの報告をすると、仁くんは「まじでバレないようにしろよ」と釘を刺しつつ、智宏くんは「同棲!うらやましい!」とおちゃらけつつ、祝福してくれた。
 透くんは「幸せにしてあげてね」と結婚の挨拶に対するような返答をしてきた。俺は「必ず」とだけ返す。
 透くんの瞳は地獄の淵でも見ているのだろうか。熱をなくした無機質な瞳が微かに揺れていた。
▲▼

 あれから2年以上だ。「おかえり」と「ただいま」にこそばゆくなるなんて、童貞の中高生みたいだろ。
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