ここではないどこか

 「ここで」

 マンションまであと少しというところで透はタクシーを止めた。スムーズにお会計を済ませて私を降ろす。透が続いて降りてきたことに私は驚き、目を丸くした。

「お酒、少し抜いた方がいいよ」

 そのまますぐそこにあったコンビニで水を買った透が私にそれを手渡した。
 酔いは完全に覚めてるよ、と思ったが側から見ればそうでもないのだろう。「ありがとう」と素直にそれを受け止り、喉に流し込んだ。

「……透が急に現れてビックリしちゃった」

 気まずさを追い払うように、軽く笑いながら言うと「俺の方が驚いたよ」と笑う。
 たしかに、なんか揉めてるなぁと横目で見た人物が姉だなんて、そうそうないだろう。

「あのお店、よく行くの?」
「ん?あぁ、瑞樹に教えてもらってから、まぁたまに」

 あぁ、瑞樹くんに。私は透が居たことにようやく納得をした。

「そっか……ほんとにありがとう」

 私の言葉に透は反応しなかった。また水の入ったペットボトルに口をつける。ぐびり。

「ねぇ。私のこと嫌な奴だなって思った?……嫌いになった?」

 ふっ、と鼻で笑う音がした。

「あなたって本当にどうしようもない人だね」

 透が顔を歪める。今にも泣き出しそうな顔。コンビニの明かりに照らされ儚げに揺れる瞳がよく見えた。

「俺が、……俺が、姉さんのことを嫌いになれると本気で思ってるの?」

 あ、泣く。

「水、こぼれそうだよ」

 傾いたペットボトルを指差し、透は笑った。透は泣かなかった。
 透が握っていたキャップを私に差し出す。
 僅かに触れた指先が名残惜しむように私の手のひらに痺れを残した。

「あーぁ」

 透が困ったように眉を下げる。

「触れたらもう最後だと思ってたのに」

 触れたら最後、もう一度求めてしまう。

 触れたら最後、もう後戻りはできない。
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