社長、それは忘れて下さい!?
先輩は無意識のまま、怖いほどに無自覚のまま、涼花にそう言った。
それも仕方がない。今になって思えば、あの時の先輩は何も悪くなかった。強いて悪かった点をあげるならば、涼花の『怖い』という気持ちを酌めなかった事だ。けれど涼花も、その感情を伝える努力をしていなかった。
だから先輩は悪くない。悪かったのは大部分において涼花の方だ。
「先輩的にはそうなんですよね。もう過ぎたことですし、わかってはいたんですが……」
わかっている。先輩はあの日々の中で、涼花との行為だけ何一つとして記憶していない。実際はどうあれ、彼の中では『浅い関係』で完結しているのが現実だ。
龍悟に言わせれば『ファンタジー』、旭に言わせれば『ミステリー』のこの特異体質は、自分ではなく相手に影響を及ぼすもの。相手の意思とは無関係で、涼花が歩み寄る努力を怠った結果に生じるものだ。
けれど。
「改めて言葉にされると、私、何だったんだろうなって。後から言われたこととか、ちょっと色々……思い出して……」
「涼花」
忘れられた事そのものの原因は、確かに涼花にあった。
けれどその後、悲しい扱いを受けた事実がある。辛い言葉を投げつけられた事実がある。警察沙汰一歩手前の騒動に発展して、心が擦り切れそうなほど泣いた事実もある。
だから忘れようとした。忘れて生きていく方が楽だと思っていたし、消したかった。
思い出したくなど無かったのに、こうして不意に、思い出してしまった。あぁ、なんか嫌だなぁ、なんて軽い喪失感で済むぐらいならよかったのに。
「バカなのか、お前。泣くほど辛い事を一人で溜め込むな」
そう言われて思い切り抱きしめられて、ようやく自分が泣いていることに気付いた。
指摘されて初めて、ぼろぼろっと大粒の雫が目から溢れ出した。思い出したくなくて一生懸命蓋をしていたのに、結局冠水して、決壊した。
せめて涙を拭おうと腕を動かしたが、優しい恋人の力強い腕が、自分で辛さを拭う行為さえ掠め取った。
「りゅ、……ふ」
回された掌にぽんぽんと背中を叩かれると、幹を揺らされた大木から果実が落ちるように、また涙がぽろぽろと零れてきた。名前を呼ぼうとしたが、声にもならない。