Don't let me go, Prince!



 声をかけられて隣を見ると、見たことの無い男性が本を一冊手に持って立っていた。別に店内が混んでいる訳でもないのに、何故?

 私はこのホテルの場所もよく知らないし、こんなところに知り合いなんている訳がない。でもその男性はニコニコと私の返事を待っている。

「えっと……どうぞ?どこかでお会いしましたか?」

 初対面のはずなのに、何故かそう感じさせない何かが男性にはある。年は20代後半から30代前半というところだろうか。茶色いふわふわの髪と優しそうな細い瞳が印象的な人だ。
 何がそんなに楽しいのかニコニコと微笑まれて、つい私も笑ってしまいそうになる。本当に変な人。

「ううん。僕たちは、初めまして……だよ。たまたまお姉さんがこの喫茶にいるのを見つけてね、是非お話したいと思ったんだ。」

「なあに?ナンパならもっと若い子に行きなさいよ。私は人妻なの、今も旦那様を待ってるだけなんだから。」

 調子よさそうに話す彼は、私が左手に光る指輪を見せつけても気にする様子はない。それどころか満足そうに「うんうん」と頷いている。

「人妻だからってよその男と話すな、なんて言うような心の狭い旦那様なの?お姉さんはこうしてちょっとくらい他の男とも話したいとは思わないの?」

「思わないわね。旦那様は他の男と話すな、なんて束縛してくれるような人じゃないわ。私が旦那様のためにそうしていたいだけ。」

 もし弥生さんが私が他の男性と話して嫉妬してくれたら……それを私は喜んでしまうだろう。どんな形でもいいの、私が少しでも彼に想われてるって分かる何かが欲しい。

「へえ……想像していたのよりずっと気が強い女性なんだね。もっと大人しいのがお似合いだと《《思ってた》》のに……ねえ、お姉さんのお名前は?」

 彼の言葉は何か所々が引っかかる。これは勘なのだけれど、彼はきっと何か目的があって私に近付いているのだろう。

「人に聞くときは、自分から名乗るものなんじゃないの?」

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