あの日溺れた海は、

「幼い頃に、記憶に鮮明に残るような体験をしたんだ。
 
 …前に私が小説家を目指していたけど、家庭の事情で諦めざるを得なかったということを話したでしょう?それに関係することなのですが…。」
 

そこまで言うとふう、と深呼吸をして、再び口を開いた。
 

「その時5歳だから…もう20年前の丁度今日みたいな日で。
 
井上さんのお父様は、ペソの大冒険の作者をうちの父だと仰っていましたが…本当は母が書いた作品だったんです。

文章を書くのが上手な人って、感受性が豊かな人が多いでしょう?母もそうでね。ただそれが、悪い方に作用してしまって、それで、
 
クリスマスの朝、大量の薬を飲んで、泡を吹いて気を失っている母がキッチンに倒れていて、それで…。」
 
 
悲痛な表情を浮かべながら、ゆっくりと語る先生の姿に息が苦しくなった。

 

「母はそのまま、帰らぬ人に。でも、生前母が残した遺書に、『父の名義で書いた作品を出版してほしい。』と。

だから、父が書いたことになっていたんです。井上さんへのファンレターの返事も、父が書いていたんです。」
 

最後は自嘲気味にそう言う先生をわたしはただ黙って今にも泣き出しそうな顔で見つめるしかできなかった。
 

「…井上さんを見てると、何だか懐かしく感じて、安心できるような、でも焦燥感に駆られるような、不思議な感覚なんです。
井上さんも、井上さんの傷を追ってるから、でもその中で一生懸命に生きようとしてるから、過去の自分と重ねてしまったり…。」
 

今まで見たことのないほど痛々しい表情を浮かべる先生をわたしは抱きしめたかった。でも、できなかった。
 

「生徒にこんなことをこぼして…ごめんなさい。教師のすべきことではないですね。」
 
 
眉を下げてそう言う先生にわたしは一生懸命首を振った。
 
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