愛のない結婚のはずが、御曹司は懐妊妻に独占欲を放つ【憧れの溺愛シリーズ】
男のひとの腕の中に収まることなんて、二十五年間生きてきて一度もしたことがない。

密着しているわけではないのに背中が熱くて、彼が何かを話す度に口から飛び出しそうになる心臓を宥めるのに必死。
出会った時から感じていた、清涼感のある甘くスパイシーな香りに包まれていて、顔を動かすことすらできない。

「どうした寿々那。やっぱり怖いのか?」

祥さんは身を少し屈ませて、わたしに顔を寄せて言った。しっとりとした低音と吐息が耳にかかって、首筋がぞくりと粟立つ。首を竦めそうになったけれど、なんとなくそれは『負け』な気がして、勢いよく(かぶり)を振った。

「い、いえ……」

『もう平気なので、ここから出してください』―――そう続けようとしたのだけれど。

「おっ、見てみろ。タワーブリッジの跳ね橋が上がるみたいだ」

そう言いながらテムズ川の下流を指した祥さんにつられてそちらを見ると、タワーブリッジの『跳ね橋』が今まさに上がるところ。自分が置かれている状況を忘れて、その様に見入ってしまう。

両側に跳ね上がった橋の下を悠々と通り抜けた大型船が、ザ・シャードが作る長い影の上を進んでいく。

ロンドンに三年も住んでいたというのに、わたしは一度もここに来たことはなかった。

人気スポットだということはもちろん知っていた。だけど、わたしにとっては『街中で方角を確かめるための目印』というだけ。地上からの高さに合わせたと言わんばかりの入場料金を、景色を眺めるためだけに払う余裕なんてなかったのだ。

(わたし今、あの影の中にいるんだ……)

なんて不思議なことなのだろう。

この沈みゆく太陽が、再びロンドンの街を明るく照らす頃には、わたしはもうこの地には居ない。
ロンドン最後の夜に、こんなふうに街を見下ろすことが出来るなんて、夢にも思わなかった。
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