小さな願いのセレナーデ
「ウィーン行って一皮剥けたよね、下里君」
「リハーサル、良い音だったよ」
そう蒲島先生、原先生にも言われて嬉しくなる。

「シューベルト最期の家、行った?」
「ちゃんと行ったよ。ピアノソナタの譜面もちゃんと見たよ」
「あぁ、見たんだ」

前を歩く秀機君が、振り返ってにっこり笑う。

「土屋君、あの曲好きだよねぇ」そう先輩が後ろでクスクス笑っていた。

そんな和やかな雰囲気で、リハーサルは進む……と思っていた。
異変が起きたのは、舞台袖を歩いていた時のこと。

「地震?」
地面が大きく、ぐらぐらと揺れ始めた。バランスを崩しそうになった私を、咄嗟に秀機君が腕を掴んで支えた。

「みんな一回降りようか」
先頭の蒲島先生が、こっちと指差した。
ちょうど舞台の端に、客席への階段がある。
一旦みんなで降りようと、階段に向かっていた、その時だった。


「秀機く……」
前を歩く秀機君に──黒い影が落ちてくる。
私は咄嗟に突き飛ばした、はずだ。


断言ができないのは、記憶が途切れているから。
彼の背中に手を伸ばした、そこで記憶が途切れていた。
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