冷徹ドクターは懐妊令嬢に最愛を貫く
***

 十七年前、蝶子はピカピカの一年生だった。

「行ってらっしゃい、蝶子」
「うん、行ってきます」

 いつもと同じ朝のひとコマ。でも、その日の小夜子はどこか様子がおかしかった。蝶子を見つめる瞳は、なにか思いつめたような危うさがにじんでいた。このとき、『どうかしたの?』とひと言でも声をかけていたら、違う未来があったのだろうか――。

 朝は元気いっぱいだった蝶子だが、下校するときには自分の体調の異変をはっきりと感じていた。身体は熱っぽく、顔中が熱くて痛かった。ふらふらになりながら帰宅したが、家には誰もいないようだった。小夜子は観月製薬の経理などを少し手伝ってはいるが、蝶子の帰宅前には必ず戻るようにしてくれていた。いつもなら出迎えてくれるのにと、蝶子は不思議に思いながら初めて使う合鍵で家のなかに入る。

「お母さん?」

 もちろん誰からも返事はない。蝶子はベッドに潜り込み、ひとり苦しさと戦った。

「お母さん、早く帰ってきて……」

 だが、どれだけ待っても小夜子は帰ってこない。その夜、蝶子は尋常じゃないほどの熱を出したが、夜遅くに帰宅した公平にそれを言い出すことはできなかった。夫婦の部屋に残されていた離婚届を発見した公平はひどく激高していて、蝶子のことなど視界にも入らぬようだった。

 熱にうかされた頭で、蝶子は幸せだと信じていた家庭が砕け散ってしまったことを理解した。

(お父さん、お母さん。苦しいよ、助けて――)

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