冷徹ドクターは懐妊令嬢に最愛を貫く
 晴臣が予約した宿は、山あいに位置する五室しかない隠れ家的な旅館で、静かにときを過ごすにはぴったりだった。茜色の着物姿の仲居に案内され、部屋に入った蝶子は「わぁ」と素直な歓声をあげる。

「すごく素敵なお部屋」
「お庭にはこの宿自慢の露天風呂もありますよ。今日はお天気もいいですし、どうぞごゆっくりお楽しみくださいませ」

 感じのいい仲居はそう言い残して、部屋を出ていく。

 晴臣は庭に面したガラス扉を開け、手招きで蝶子を呼ぶ。

「風情があって、いい風呂だぞ」

 赤い大きな和傘の下の畳敷きのベンチ、湯舟はヒノキ造りでゆったりと大きく、三人くらいなら余裕で入れそうだ。落ち着いた和の空間の外側には、箱根の山々が広がっている。
「本当ですね!」

 ちょこんと隣にやって来た蝶子に晴臣はぐっと顔を寄せる。

「一緒に入るか?」

 半分以上本気で晴臣は言ったが、蝶子は熟考のすえにふるふると首を横に振る。消え入るような声でささやく。

「……それはさすがに、恥ずかしくて死んでしまいそう」

 晴臣としては、死ぬほど恥ずかしがる彼女をぜひとも見たいところだが、無理強いするのはよくないと思いとどまった。それに、たとえ小さなことでも蝶子が自分の気持ちをはっきりと伝えられるようになったのは、いい傾向だ。
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