鬼麟
「“棗のこと待ってる”って」

 本当なら自身の口で伝えたいだろうが、それが出来ないことを分かっている。聞き分けの良さにお前も大概だよと意地悪を言うのをやめて、分かったと返せば車はまた発進して去って行った。
 テールランプが見えなくなる前に向きを変え、ホールを通ってエレベーターに乗り込み部屋へと向かう。最上階に着けばそこはもう俺の家であり、すべてのキーを解除して中へと入る。

「ん......」

 揺れに意識が浮上したのか、丸く大きな瞳が微睡みに揺蕩うように笑った。

「綾の、匂いがする......」

 寝惚けているだろうが、それでも自身をとろけさせるには事足りるその柔らかさには慣れていた。可愛いと言う言葉を噛み潰して家に着いたことを告げれば、彼女は胸に頬を寄せながらいい匂いなどと言うのだから困りものだ。
 ひとまずソファに下ろし、風呂の湯を沸かしに行けばどっと冷や汗が出た。
 眠い時がいちばん危ないことは前から知ってはいたが、離れていた分少し耐性が落ちていたらしく危うく手を出しかけた。

「棗、風呂入るだろ? すぐに沸くから」

 まだ寝惚けているだろう棗を起こそうとリビングへと戻り、固まったという表現が相応しいだろう。
 風呂に湯を入れている音に反応していたらしい彼女は、すでに制服を脱ぎ始めていたのだから驚きで一瞬すべての動きを止めてしまう。
 ジャケットはテーブルに、スカートはソファに、ネクタイは踏んづけて。残っているのはシャツと靴下であり、どんな趣味だよと頭を抱えたくなる。
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