オトメは温和に愛されたい
***

 準備が整ったら、温和(はるまさ)の部屋に面した壁をノックするように言われたけど……本当に甘えてしまってもいいのかな。

 そもそも一緒に出勤なんてして、人に見られたらどうするつもりなんだろう。

 断るべきかも、とスマホを取り出して手にしたまま、くだんの壁にすがってしばらく逡巡していたら、急にバイブとともに着信音が鳴り響いて、私はびくっとして思わず壁にスマホを打ち付けてしまった。
 ドン!という音がして……それはもう手でノックしたより大きなタップ音で――。

 壁を叩いた拍子に通話ボタンも押しちゃったみたいで、声が聞こえてくる。

『おいコラ、音芽(おとめ)! お前の愛するハンサムなお兄様がわざわざ時間割いて電話してやってるんだ。ボサッとしてねぇでさっさと返事しやがれ』

 ゲッ。カナ(にい)!? 朝っぱらから……何!?

「ちょっ、何の用!? 私、もう出なきゃいけなくて忙しいんだけど?」

 日頃連絡を寄越さないカナ(にい)からの連絡なんて、ろくなもんじゃないに決まってる。
 過去にも私、この兄のチャランポランな女性遍歴のせいで、すごく怖い目にあったんだから!

 ふとそう思って、ん?と思う。

 すごくしんどかった気がするのに、何されたんだっけ?って考えたら、チリリとこめかみの辺りが疼いて記憶が曖昧になる。

 ダメ、思い出せない。

『あれー? おっかしいなぁ! お前めちゃくちゃ元気そうじゃん。落ち込んでるって聞いたから、もっと落としてやろうと思って電話したのに――』

 相変わらずこの兄はっ。

 一人わけの分からないことを言う奏芽(かなめ)にイライラしていたら、隣の玄関扉が開閉する音がした。

 次いで、チャイムの音――。

 あー、さっきのあれ、やっぱりノックだと思いましたよ、ね?

『あー、つまんねぇ……。久々に音芽(おとめ)の泣き顔見てぇわぁー、マジ……』

 あーん、もう、何なの、このバタバタっぷりっ。
 カナ(にい)がまだ何か鬼畜なことを言ってるけれど、とりあえず無視っ! 

 通話中のスマホを手にしたまま、私は壁伝いにヨロヨロと玄関へ急いだ。
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