逆プロポーズした恋の顛末
所長は顔をほころばせたが、尽は無反応だった。
膝の上に置かれた手は、何かを堪えるように拳を握りしめている。
(ごめん……尽)
突然目の前に自分の子どもかもしれない存在が現れて、動揺しないわけがない。
しかも、その子が自分ではなく、別の人間を尊敬し、そのひとのようになりたいと思っていると聞いて、嬉しいはずがない。
「おにいちゃん先生は、お肉とお魚、どっちが好き?」
「え? ああ、どっちも好きだ。幸生は?」
「ぼくもどっちも好き! ママが作ってくれるお料理は、すっごく美味しいからみんな好き!」
「へえ? そんなに美味しいのか。ぜひ、食べてみたいな」
「ママ! おにいちゃん先生にも作ってあげて?」
「う、うん、そのうちね……」
穏やかとは言い難い心境だろうに、尽は何事もなかったかのように、幸生とのおしゃべりを続けてくれる。
その自制心と思いやりに、ますます罪悪感が募った。
立派な医師に、やがては大病院の院長になる尽の未来を考えて、弁護士を通して告げられた「別れろ」という要求を受け入れた。
日々プレッシャーとストレスにさらされる研修医という大変な時期に、それ以上の重荷を背負わせたくなかったし、自分が彼に相応しくないということは、十分すぎるくらい自覚していたから。
愛があれば、二人の気持ちさえしっかりしていれば、どんな困難も乗り越えられると信じられるほど、世間知らずにはなれなかった。
あの時は、それが「大人の女」の取るべき道だと理由をつけた。
でも、本当は……逃げただけ。
尽に妊娠を知らせなかったのは、否が応でも立ち向かわなければならない、数々の壁が出現するのがわかりきっていたからだった。
傷つき、傷つけ、他人とぶつかり合う経験を重ねて大人になれば、適切な距離を保って、最初から傷つけ合わないように先手を打つのが当たり前になる。
困難に真正面からぶつかるよりも、上手くかわし、あらかじめ回避し、できるだけ影響が少ないやり方を選ぶようになる。
尽のためだから。
分別のある大人だから。
お互いにとって一番いい結末だから。
それらしい言い訳をいくつも連ね、逃げた。
「ブタさんは、ポーク。ウシさんは、ビーフ。ヒツジさんは、ラム。それから……」
所長の家へ向かう途中、尽と一緒に精肉店で各種各部位を購入した幸生は、さっそく尽に教わった単語を呪文のようにくりかえす。
その様子を見るにつけ、ベストだと思っていた選択が、大きなまちがいだったかもしれないと考えずにはいられなかった。
募る罪悪感と見つからない正解に頭を悩ませている間に、町の外れにある所長の家に到着した。