マエノスベテ
 パンフレットが並べてある壁際の区画で、すー、はー、とやけに深呼吸しているスカート姿の女性を見つけた。
具合でも悪いのかと近づいてみるとやはり『彼女』だった。
「少し、落ち着かないです……」
彼、が話しかけに行く。
「こんにちは。こられていて、よかった」
「はい……あの」
彼女はぼくの方をちらりと見たが、「彼は協力者だから気にしないでいいよ」と彼が言うと納得したように微笑んでいた。
しかし額にはうっすらと不安や恐怖がにじむ。
恋愛に対する甘い気持ちからでも彼に見惚れているからでもなく、感情を表す、自由な意思で動く、というものを求められるこういった状況はともすれば発狂してしまうようなものだった。
彼女は、少しだけ、ぼくと似ていた。
今考えていることも、きっと早く帰りたいということだろう。
意思や自我を許されない感情の檻から、少し出されたところで腸が煮えくり返るだろう。
中身のない自分の自我の脱け殻を褒められるという不気味。
自分にすら操り用のない、壮絶な嫌悪。
ここまで、来られて、本当に、よく頑張っている。
「先ほど」
と彼女は言った。
「実はなえさんが来られて……『今日は、一緒に居るといいよ』と、くま様がついて来てくださったのです」
やがて彼女の手にしている
ファスナー付きの、かご風のトートバッグから、ひょこっと、無表情な彼が現れ、こちらをじっと見ていた。
「……」
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「頼もしいな。くまさん、今日はよろしくお願いしますね」
彼が小さく会釈する。
ぼくも同じようにした。
彼には『声』が聞こえないはずなのだが何か思うところがあるのかもしれない。
自分のことでないにしろ、少し、嬉しいような気分になった。
当のくまさんはというと、じっ、と視点を変えもせず、前を向いているままいつも通りに微笑み、そして、僅かな人にだけ聞こえる声で言う。
ついてって来いと言われただけだから別にまだ、なにもしちゃいないが何か頑張るシーンなのか?
しかしここ、暑いな。やっぱり人口密度が高いっていうのかね。あの子はあの子で、やることを遂行中だとそこの長髪に伝えて欲しい。
「――わかった、あのさ」
と、ぼくは彼、にそれを伝える。
「どうして、それを?」
彼は、不思議そうにした。
はたから見るとぼくの独り言にしか見えない。
「えっ、あ、あぁ、あの、たまたまあの家で二人になったとき、言われたんだ、今、思い出した」
ふ。あはは、あははははっ!
あははは!
と、くまさんは笑った。
……そんなに笑えることがあったなんて、幸せなやつだ。
「そう」
彼は極めて冷静に、相づちを打った。
鞄から少し顔が出るようにして、くまさんは辺りを見渡して呟く。
しかしこういうモノと話せる人間がまだ現代にも居たとは。素晴らしいこともあるものだね。生きてると。
彼女、は出掛けるまで大変だったぞ。なかなか靴をはかないし、そもそもなかなか着替えないし、着替えたと思えば不安で吐くし、吐いたと思えば、しばらく震えていた。
「そう、なんだ」
――だから外に出るまで、『ほら、ふわふわだよ、もふもふだよ』と、献身的に付いて居たんだ。この愛くるしさがなければできない仕事だね。
「うん。実にいい仕事だよ」
なるべく二人に悟られないように小さな声で会話する。
ほとんど念話に近かった。
実際のところ、彼女は、耐えられるのだろうか。今はフリとは言え、長い間使わなかった感覚を、制御されていた精神を、急に使わなくてはならない状態、しかも、沢山の人間に晒される。
それはまさしく、暴力や事件にに曝された子どもが精神を破壊されたままで何事もないように周りにふるまい仲良くできるのかという問いだった。
しかもこの場合は、破壊されたら再生出来るかもしれないが、壊れかけであらゆる刺激を吸収しやすい状態での放置である。
「もしかしたら――」
思うことがあった。
しかし、今言っても、意味のないことだった。
2019/06/13 20:58