腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
鴛桜師匠の『ちゃんと治してから出てこい』という鶴の一声で、左右之助さんの参加はとりあえず一週間繰延になった。彼が出演しない演目のお稽古を先に進めることになったらしい。

熱が少し下がって目を覚ました第一声は、『今日は何日?顔合わせは?』だった。繰延になったんで大丈夫ですよと伝えると、パタリとまた横になってそのままこんこんと眠った。

時々目を覚ましてはトイレに行ったり、ゼリー飲料のようなものを取らせたりはするけど、それ以外はほとんど眠っている。

よっぽど疲れてたんだろうな。

ちゃんと目を覚ましたのは三日後のことだった。朝日の中で見る左右之助さんは頬がこけて、やつれてしまっている。でも、そんな姿すらちょっと艶っぽい。
「出て……行かなかったんですか?」
私を認識すると、左右之助さんは切れ長の瞳を見開いた。
「なんで出ていくと思うんですか」
「だって……」
続く言葉は、言葉にならなかった。くしゃりと歪んだ表情は、子どもみたいだ。

「いつから私に目をつけてたんです?」
「いつから……というのは」
「柏屋の娘と結婚したかったんでしょう?沈みかけた御苑屋を建て直すために」
「全てご存知なんですね」
左右之助さんが諦めたように溜息を吐き出した。

「祖父が体調を崩すようになり、御苑屋の進退は一門の喫緊の課題でした」
お父さんの左右五郎(そうごろう)とお母さんを早くに亡くし、左右之助さんは役者を始めた最初からおじいさんの左右十郎が後ろ盾であり、師匠だった。ちゃんと考えてみれば、それは想像を絶するくらい大変なことだったはずだ。

左右之助さんには兄弟もいない。正式に御苑屋の血を引く後継は左右之助さんただ一人ってことだ。そんなプレッシャー、私だったらきっと押しつぶされてしまうに違いない。唯一の御曹司として独り立ちを急ぐ最中、さらに悪いことに左右十郎が病に倒れてしまった。
「亡くなる間際、祖父が『柏屋にもう一人娘がいる』と僕に告げたのは、自分の死後の御苑屋が心配で、柏屋に後ろ盾になって欲しかったからです。形式が大切なのが梨園というところですから」
形式を整えるための手段が結婚だったらしい。

「志村桜左衛門の娘が美芳という料亭の娘だと知らされ、僕は貴女の身辺を調べ始めました。でも……薪歌舞伎の日に現れた貴女が、まさかその人だとは思いもしませんでした」
「じゃあ、あの時は私を、お財布とチケットをなくしたただのお客だと思っていたんですね」
そりゃあそうか。入場列で騒いでいる初対面の女性が、桜左衛門の娘だなんて誰が思うだろう。
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