腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
スマホを取りに行くと、志村家より先に実家に電話した。
「お母さん、訪問着また貸してくれない?」
「ええけど」
説明しなくても、お母さんはそれだけで何か察してくれたようだった。
「若い頃の着物、箪笥ごとみんなあげるわ。必要やろ?」
「わお、箪笥ごと……」
「置く場所には困らんやろし」
「そうだね、ありがと」
さすがお母さん、頼もしすぎる。
「それと明日の南座興行の顔合わせに、軽食かお弁当か何か差し入れしたいんだけど。頼めないかな」
「明日?随分急やね」
「本当に急でごめん。無理?」
「何人分?」
「後で左右七さんに聞いて連絡する」
「今夜、柏屋の役者の予約入ってるから聞いといてあげるわ。なんかあったんやろ?」
「うん……」
「ほんなら、そっちに専念しなさい。差し入れは任せとき」
「よろしくね!」
次に志村家に連絡を入れた。鴛桜はいなかったけど、電話をとったのはいつだったか歌舞伎のワークショップ会場で会った、梅之丞(うめのじょう)さんという内弟子さんだった。左右之助さんの状態を伝えてお休みのお願いをすると、伝言を請け負ってくれる。
すぐに寝室に戻ると、左右七さんとバトンタッチした。
「あの、奥様……本当に明日、柏屋の旦那に謝りに行かれるので?」
「状況は電話でお伝えしたけど、電話だけってわけにいかないですよね。私は梨園のしきたりなんか知りませんけど、誰かがちゃんとお詫びを入れに行ったほうがいいことくらいは分かりますもん」
「ありがとうございます……!」
「左右七さんも休んでください。明日からの座組に入っているんでしょう?」
「はい!」
心底ホッとしたように、左右七さんが部屋を後にする。改めて左右之助さんの顔を見ると、浅く速い呼吸を繰り返していた。端正な顔立ちが苦しそうに歪んで、脂汗が浮かんでいる。
近くにあった手ぬぐいで額の汗を拭った。この人は、きっとこうやって一人でなんでも我慢して、背負って、抱え込んで生きてきたんだ。
「可哀想に」
あんまりにも可哀想だ。いつから跡取りだと自覚して生きてきたんだろう。子どもらしい子ども時代はあったんだろうか。まだ三十年弱しか生きていないのに、多くの人生を背負ってる。もっと大きな意味での芸の継承まで背負って、そこから逃げずに立ち向かってる。
だからって婚約者を騙していいってことにはならないけど、『必死だった』と言う意味は多少理解できる気がした。いつの間にか、憤りや怒りは小さくなっている。
「本当にバカだなー……」
自然と手が伸びた。子どもをあやす様に頭を撫でると、薄茶色の髪は柔らかくてサラサラとしている。
「飲み物いるかな」
さっき左右七さんに頼めばよかった。そっと手を離して立ち上がろうとすると、のろのろとベッドから手が伸びてくる。
「行かないで……」
小さな呟きが胸を打つ。左右之助さんの指が、力なく私の服をつかんでいた。
「どこにも行きませんよ」
またそっと髪を撫でると表情が緩む。それでも苦しそうなことには変わりないけれど、熟睡するまで左右之助さんの側にいた。
「お母さん、訪問着また貸してくれない?」
「ええけど」
説明しなくても、お母さんはそれだけで何か察してくれたようだった。
「若い頃の着物、箪笥ごとみんなあげるわ。必要やろ?」
「わお、箪笥ごと……」
「置く場所には困らんやろし」
「そうだね、ありがと」
さすがお母さん、頼もしすぎる。
「それと明日の南座興行の顔合わせに、軽食かお弁当か何か差し入れしたいんだけど。頼めないかな」
「明日?随分急やね」
「本当に急でごめん。無理?」
「何人分?」
「後で左右七さんに聞いて連絡する」
「今夜、柏屋の役者の予約入ってるから聞いといてあげるわ。なんかあったんやろ?」
「うん……」
「ほんなら、そっちに専念しなさい。差し入れは任せとき」
「よろしくね!」
次に志村家に連絡を入れた。鴛桜はいなかったけど、電話をとったのはいつだったか歌舞伎のワークショップ会場で会った、梅之丞(うめのじょう)さんという内弟子さんだった。左右之助さんの状態を伝えてお休みのお願いをすると、伝言を請け負ってくれる。
すぐに寝室に戻ると、左右七さんとバトンタッチした。
「あの、奥様……本当に明日、柏屋の旦那に謝りに行かれるので?」
「状況は電話でお伝えしたけど、電話だけってわけにいかないですよね。私は梨園のしきたりなんか知りませんけど、誰かがちゃんとお詫びを入れに行ったほうがいいことくらいは分かりますもん」
「ありがとうございます……!」
「左右七さんも休んでください。明日からの座組に入っているんでしょう?」
「はい!」
心底ホッとしたように、左右七さんが部屋を後にする。改めて左右之助さんの顔を見ると、浅く速い呼吸を繰り返していた。端正な顔立ちが苦しそうに歪んで、脂汗が浮かんでいる。
近くにあった手ぬぐいで額の汗を拭った。この人は、きっとこうやって一人でなんでも我慢して、背負って、抱え込んで生きてきたんだ。
「可哀想に」
あんまりにも可哀想だ。いつから跡取りだと自覚して生きてきたんだろう。子どもらしい子ども時代はあったんだろうか。まだ三十年弱しか生きていないのに、多くの人生を背負ってる。もっと大きな意味での芸の継承まで背負って、そこから逃げずに立ち向かってる。
だからって婚約者を騙していいってことにはならないけど、『必死だった』と言う意味は多少理解できる気がした。いつの間にか、憤りや怒りは小さくなっている。
「本当にバカだなー……」
自然と手が伸びた。子どもをあやす様に頭を撫でると、薄茶色の髪は柔らかくてサラサラとしている。
「飲み物いるかな」
さっき左右七さんに頼めばよかった。そっと手を離して立ち上がろうとすると、のろのろとベッドから手が伸びてくる。
「行かないで……」
小さな呟きが胸を打つ。左右之助さんの指が、力なく私の服をつかんでいた。
「どこにも行きませんよ」
またそっと髪を撫でると表情が緩む。それでも苦しそうなことには変わりないけれど、熟睡するまで左右之助さんの側にいた。