腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
柏屋は世話物、御苑屋は時代物を得意としている。
時代物は江戸時代よりもう少し前の武家社会を描いた話で、世話物は江戸時代の大工や魚屋、侠客や遊女、長屋の衆など様々な町人たちが登場する。もちろん、両家ともどっちもやるんだけど、やっぱり得手不得手はあるらしい。

今度の興行では、立役が女形を演ったり、その逆だったりするんだそうだ。左右之助さんも鴛桜師匠の指示で慣れないお役を稽古しているみたいで、口数がいつにも増して少ない。

新婚なのに。

もちろん、女の私が稽古場に足を踏み入れることはないので、こんなに近くにいても彼の状況がつぶさに分かるわけじゃない。
「得意分野を封じられた気分です」
梅之丞さんがぼやく。きっと、左右之助さんもそういう気分なんだろう。みんなの前では言わないし、出さないけどね。

「送る会を兼ねた興行に足をお運びになるお客様は相当なご贔屓さんでしょうし、私だったらいつもと違うものを見られて嬉しいです」
「なるほど……そういう考え方もありますね」
「それに、お役の幅が広がるのはいいことなんじゃないですか?」
本当はこうして励ましてあげたいのは、左右之助さんなんだけどな。もちろん、私なんかがお役のことに口出しできないのは弁えているつもりだけど。
「前向きに頑張ることにします!」
「楽しみにしていますね」

飲み物を配り終わると、私はまた筆を取った。
左右之助さんがお稽古したり出たりしている間、私の目下の仕事は興行のご案内を関係者やご贔屓筋に出すことだ。それまで女性がいなかった御苑屋では、左右之助さんが自ら書いていたらしい。
左右之助さんはそのままやると言ってくれたけど、病み上がりの負担を少しでも軽くしたいし、お稽古に専念してもらいたいもんね。

最初はリストを見て、この数のご案内を直筆で!毛筆で!!一筆添えると聞いて気が遠くなったけど──硯で墨を刷って筆を持っているうちに、徐々に感覚を思い出してきた。
「日向子さん、達筆ですねえ」
感心したように手元を覗き込んできたのは、寿太郎(じゅたろう)さんだった。彼もワークショップに通い詰めて知り合った、つけ打ちという音響さんの一人だ。
「実家の料亭で毎日、お品書きを書かされてたんです。まさか、こんな風に役に立つとは思いませんでしたけど」
「歌舞伎好きで書道も達者なんて、役者の奥様にはうってつけですよ。羨ましい」
「ふふ、ありがとうございます」

こうして歌舞伎の関係者とお話しできて、毎日賑やかな生活はやってみればそれほど悪くない。っていうか、結構楽しいかも。……ただ、一つを除いては。
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