腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
左右之助さんの千鳥は懸念材料だけど前向きだし、鴛桜師匠の俊寛はもちろん、桜枝さんの成経も役柄や経験値としてはピッタリだろう。誰も心配していなかったんだけど──お稽古が始まってみれば難航しているらしい。
「あれ、若旦那お二人はまだ出ていらっしゃらないの?」
昼食を一緒に用意してくれた八重さんが、お稽古場から続々と出てくる役者さんたちの顔ぶれを見て小首を傾げた。

「そんなんで初役が務まると思ってんのかい!」
お稽古場の方から鴛桜師匠の鋭い声が飛んできて、役者さんたちが昼食を食べながら耳がダンボになっている。もちろん、私も。
「桜枝、あんたの今のヘナチョコぶりじゃ、形にするにはいくら時間があったって足りないんだからね!左右之助の女形だって久しぶりなんだから、とっとと二人で合わせる努力をしろってんだよ!!」
もちろん、女の私がお稽古場に足を踏み入れるなんてことはないけど、近くの和室でパート別に練習していたりすると、鴛桜師匠の大きな声は漏れ聞こえてしまうのだ。
「今日も白熱しておりますわねえ」
八重さんが心配そうに呟く。
「そうですね……」

本当は知っていた。左右之助さんが、毎晩寝苦しそうに寝返りを打っていることを。
彼にとって、この興行には御苑屋の行く末がかかっている。首尾よく柏屋との提携には成功したけれど、それが本当に成功したといえるのは興行がうまく行ってこそだ。結局、芸が認められなければこの世界では何も認められない。

そんなプレッシャーを感じている中で、慣れない初役。もしかしたら、鴛桜師匠に試されているのかもしれない。
「なんでも、桜枝の若旦那が俊寛をやりたいって直訴したらしいですよ」
「え、俊寛!?」
私たちの配膳を手伝いながら、左右七さんが役者さんたちの輪の中でこっそりと小声で囁いた。

俊寛といえば、歌舞伎の中でも『最後のお役』と言われる大役だ。
僧侶だけど、陰謀に加担するほどの人だから政治家的としての一面も持っている。一方で都に残した妻や周囲の人への情も厚い。舞台上の見た目は老人のようだけど、不遇の扱いを受けてそうなっているだけでまだ壮年の男性なんだよね。最後には、自分を犠牲にして恋人たちを都に帰らせる。帰らせたはいいけれど、船を見送って海に叫ぶ未練もある。
こんなに人間味があって魅力的で、かつ難しい役はない。

「さすがに鴛桜師匠クラスでも難しいお役ですよね」
「でも、ほら、左右之助の若旦那の女形が話題で、期待されているでしょう。鴛桜師匠は俊寛に挑戦だし。桜枝の若旦那がやる成経もいいお役ですけど、二人に比べると話題性が少し……ねえ」
「なるほど、そういうことですか」
焦りがあるのかなあ。御曹司も大変だなあ。

お稽古場からの声が止んでしばらくすると、三人がダイニングに入ってくる。
「お疲れ様でした。今、お食事出しますね」
あえて明るい声をかけて、私は八重さんと立ち上がる。けれど、入ってきた途端に全体を包んだピリッとした空気は、お稽古が終わるまで変わることはなかった。
こんな不協和音ばかりで……南座興行、大丈夫なのかな。
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