腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
その日のお稽古が終わり、左右之助さんがお三味線の稽古で外出した夕方になってインターフォンが鳴った。
「今日はもう、誰か尋ねてくる予定はなかったはずだけど……」
「すみません、奥様」
「え、桜枝さん!?」
モニターに映っていたのは、桜枝さんだった。
「忘れ物をしたようなんです」
玄関まで出迎えに出ると、私を見て何か含むところのある笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ。忘れ物ですか?」
「ええ、稽古場に。入らせていただいても?」
「どうぞ」
稽古場は清掃も七さんにお願いしているから、私は入ったとこすらない。本人に探してもらうと、間もなくダイニングに顔を出した。

「見つかりました?」
「おかげさまで。……日向子さん、お茶を一杯いただいても?」
「え、あ、はい」
協力関係のお家の若旦那に用が済んだらさっさと帰れとも言えず、八重さんも出かけているのでお茶を入れる。
「先日はすみませんでした。失礼を申し上げて。こちら、お詫びです」
「え?」
桜枝さんが差し出したのは、京都でも有名な老舗の和菓子屋さんの包みだった。
「失礼ってなんのことですか」
「直近の公演の感想を聞きたいなど、不躾なことを申しまして」
「いえいえ、そんなことは」
こわいこわいこわい。
絶対なんか裏がある。
「とにかくこちら、お納めください」
「理由もないのにいただけません」
わざわざ左右之助さんがいない時に尋ねてきて、手土産持ってくるなんて。この人に限って、自分の態度を殊勝に反省したとも思えない。
……しかも、今、下の名前を呼ばれたよね。
この人、本当に何しにきたの?

「なんで、急に名前呼びかって思ってる?」
突然砕けた口調に、ますます警戒心が募った。
「松川さんや、喜熨斗さんと呼ぶのは違和感があって。俺にとっては御苑屋の他の役者さんたちもみんな同じ苗字だから」
「まあ……分かりますけど」
「せっかくなので、食べながら話しませんか」
「本日はこれより立て込んでおりまして」
「もうちょっとだけ」
嫌とは言わせない、とにっこり笑ったその顔に書いてある。正直に言えば抵抗があった。でも曲がりなりにも宗家の御曹司、しかもこの大切な時期に他家で問題を起こすほどのバカではないだろう。
「……あまり長くは」
本当ならぶぶ漬け出してやりたいとこだけど、渋々応諾する。
「変な意味で引き止めたわけじゃないですよ。御苑屋の奥様相手に」
わざとらしく付け加えられた言葉に、ひんやりとした何かが胸の奥を伝う。
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