腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
歌舞伎に詳しいお客様とおしゃべりしながら観るのは、私の方こそとても楽しいひと時だった。しかも幕間で用意されていたのは、南座にレストランと販売コーナーを持つ灘萬(なだまん)のお弁当だ。販売コーナーで売られているものではなく、レストランで出されている御膳をベースに仕立てられた懐石弁当のようだった。今日の公演のために、わざわざ関係者用に特注したとしか思えない。
「また、どこかで」
「はい、ぜひ。では、失礼いたします」

隣の彼や桟敷席のもてなしもあって、大満足で桟敷席の階を降りる。京都駅まではシャトルバスが出ているから、一人暮らししているアパートのある一乗寺駅までどうにか歩いて帰れるかな。
「電車で40分だもんな」

……ちょっと気が遠くなってきた。

今日は実家に泊めてもらおう。私の実家は祇園の花見小路で美芳(みよし)という小さな料亭をやっていて、裏手に実家がある。タクシー代は払ってもらえるだろうし、当面の生活費をお母さんに借りたい。歩きでもアパートに帰るのに比べれば半分の距離だ。舞台の余韻に浸りながら散歩すると思えば悪くないかも。
左右之助に直接声をかけてもらって、席を用意してもらったなんて、一生の思い出だ。
「あの、左右之助のお客様」

「え、私ですか?」
桟敷席を出ると、一人の男性が私を待ち構えていた。
「わたくし、御苑屋の左右七(そうしち)と申します。ご自宅までお客様をお送りするように申し付けられております」
「……送っていただけるんですか?」
「帰りの足にお困りだろうと、左右之助の指示です」
「えええ」
「左右之助自身がお送りできないことを詫びるようにとのことでした」
「いやいやいや」
至れり尽くせりとはこのことではないだろうか。どうして大変な舞台を務めながら、そんなことまで気が回るの?

「帰れないわけじゃないですし、そんなことまでしていただくわけには」
「ここでお帰ししては、わたくしが叱られます」
さあさあと背中を押されて、有無を言わさず人混みから連れ出される。観客の大半が徐々にシャトルバスで帰るのを横目に、高そうなセダンのフカフカの後部座席で快適な帰り道だった。
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