腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
次の木曜日、私は会社が引けて早々に手土産を持って美芳を訪れた。
勧進帳のチケットをくれた常連のお客さんにお礼をするために、お母さんに予約が入ったら教えて欲しいと頼んでおいたのだ。

「お母さん、森山さん来てるよね?」
美芳はお母さんが女将として切り盛りをしている。私自身は京都市内のメーカーで働く事務職のO Lだけど、たまたま人手が足りなくて手伝いに駆り出された時に、常連の森山さんに声をかけられた。

──

『日向子(ひなこ)ちゃん、いいものあげる』
『勧進帳!しかも義経が松川左右之助(まつかわそうのすけ)!?』
お母さんはみっともないと眉を顰めたけど、森山さんは狂喜乱舞する私を肴に盃を重ねる。
『ありがとう、森山のおじさん。大好き!』
『ハハッ、大好きか〜。まあ日向子ちゃんも一杯飲みなさい』

──

美芳は小さいお店だし、一見お断りで常連さんばかり。小さい頃からお客さんに本当に可愛がってもらっている。

「やあね、挨拶もろくにせんと」
お母さんはカウンターを指さす。お母さんの京都弁はなんとも艶っぽいけど、東京に本社を置く一般メーカーに勤めている私は日頃なるべく標準語で話すように気をつけていた。
「日向子ちゃん」
仕事帰りなのか、スーツ姿で一杯やっていた森山さんが軽く手を挙げた。お店では相当古くからの常連さんだ。
「こんばんは!」
「芙蓉さん、日向子ちゃんの分もお猪口ちょうだい」
「はいはい」
もしかしたら森山さん、お母さんにいいところ見せたくてチケットをくれたのかもしれない。

名は体を表すというけれど、芙蓉(ふよう)という名前の通りお母さんは華やかな美人だ。お母さん目当てでお店に通っているお客さんはきっと少なくない。残念ながら、私はあんまり似なかったんだけど。
「あんまりたくさん飲ませんといてね」
「そりゃ、日向子ちゃんに言ってよ」
「この子に言うても無駄やもん。弱いのに限度を知らんのやから」
「おお、怖い。日向子ちゃん、なんでも好きなもの食べな」
「やった、ありがとうございます!」
成人してからは、来るたびにお客さんが何かしらご馳走してくれる。
料亭とか飲食店の娘なんて、こうやってお酒覚えるんだよね。最初に飲んだのがいつかなんて、もはや覚えてな……ゴニョゴニョ。

「いただきまーす」
隣に座って遠慮なくお猪口を手に取ると、森山さんが私にお酒を注いでくれる。一口飲んで、デパ地下で買った森山さんが好きな最中を差し出した。
「チケットのお礼です」
「ありがとう。気使わなくてよかったのに」
「手ぶらで来るなんて、お母さんに殺されます」
お母さんがカウンターの中からチラッと睨む。
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