腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
目を凝らせば、梅之丞さんの手が震えている。鴛桜師匠演じる俊寛が奪いとるはずの刀がない……確かにない!
「た、大変だ」
背後でつけ打ちの寿太郎さんが慌てる気配がした。
「梅之丞さんの刀、ここに」
彼の手の中には、瀬尾が持っているはずの刀がある。
つまり……持って出るはずの刀を置いていったってこと!?

周りの役者さんたちもざわざわと声を上げ始めた。
「ど、どうしましょう」
「どうもこうも……」
舞台上を見れば、鴛桜師匠が瀬尾と対峙したまま固まっている。長すぎる間に、客席にも軽くざわめきが広がり始めた。
「黒子が持っていくのは!?」
「このタイミングで黒子が舞台に出たら不自然すぎます」
「不自然は不自然だろうけど……この後の斬り合いが進まなくなるよりマシだろうさ」
「でも、それを勝手な判断でやっていいものか──許可を得ようにも、鴛桜師匠も、若旦那お二人も舞台の上ですし」
その言葉を最後に、みんな黙り込んでしまった。
結局、誰かが届けるしかない。
でも、届けることで舞台に違和感をもたらすのは避けられない。
誰もその責任は取りたくないし、取るはずの人たちは舞台にいる。

「お待ちめされ!」
不意に、左右之助さん演じる千鳥の声が舞台に響く。
目を凝らせば、二人の間に割って入るように左右之助さんが躍り出ていた。
私は島に残る、だから俊寛様が手を汚してはいけない。そんなことをするくらいなら私が海に身を投げます、というようなことを言っている。

そんなセリフはない。

「アドリブだ……」
新演出なのか、なんなのかと客席に緊張感が戻る。
この場を収めるために、左右之助さんがどうにか場を繋いでいるのだ。
俊寛と瀬尾も、左右之助さんに引っ張られて気迫が戻ったようだった。いざとなったら、素手でも殺し合うのではないかという殺気が舞台を満たす。

でも──俊寛が瀬尾を殺さなければ、この場は成立しない。
どうする。
何か、私にできることはないんだろうか。
これまでの記憶が、ぐるぐると頭の中を走馬灯のように蘇る。

不意に思い出したのは、子どもの頃に南座で舞台機構を見学した時のことだった。

俊寛はこの後……波に見立てた布が舞台を覆うはず!
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