腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
ご隠居と左右之助さんと一緒に心臓がバクバクしながら客席を出ると、狭い階段を下りようとしたそのタイミングで上ってきた人がいる。暗がりでも誰なのかすぐに分かった。
「お久しぶりですわね、森山のご隠居」
「芙蓉さん、相変わらず綺麗だねえ」
お母さんだった。
「え、お母さんとご隠居さんって、お知り合い……なの?」
「森山さんのお父さんや」
「え!?」
その顔をしげしげと食い入るように見つめる。

小さい頃からお店に出入りしては、私を可愛がって、歌舞伎を愛して、折に触れては舞台に連れて行ってくれたり、食事やお酒を振舞ってくれた森山さん。
それが大向こう親睦会の、会長の息子さん!?
「左右之助も、日向子も大きくなったなあ」
森山さんのご隠居が、シワに埋もれた目で私たちを優しく見つめる。
「まさか、この二人が結婚するとは思わなかったわ」
「そう、なんですか?」
「あんたが子供の頃に南座に連れて行ってくれたんは、一人は桜左衛門、もう一人は森山の御隠居やで」
「え……」
お母さんの言葉に、子どもの頃の記憶を掘り起こす。

──

『女の子を舞台に上げていいのかい』
『今時は体験ツアーなんてのもあるくらいだろ。硬いこと言うなって』
『それはそういう機会だけの特別なものだろ』
『お前は頭がかてぇなあ。この子だっていつかは歌舞伎ファンの一人になって足を運んでくれるかもしれねーんだぞ?』
悪戯っぽく笑う声は、初老に入りかけたとは思えないほどよく通る。
『お前のせいで、将来のファンを一人なくしたな』

──

桜左衛門に抱っこされた私に、確かにそう注意してくれた人がいた。
「あの時、女の子は舞台に上がっちゃいけないって──」
「覚えてたか」
森山の御隠居がかっかっかっと顎を上げて笑う。
「あの時の俺を殴ってやりてえよ」
ガリガリとバツが悪そうに頭をかいた。
「言うんじゃなかったな、女を舞台にあげるななんてな」
分かってるんだ──左右之助さんと顔を見合わせる。今日、私が舞台に上がったことで、あの危機的な状況を回避したことを、この人は……ちゃんと認識している。

私がお礼を言う前に、左右之助さんが隣で深々と頭を下げた。
「おかげで助かりました」
「いい役者になれよ」
御隠居の瞳が、左右之助さんに優しく注がれる。
「なーんて、俺が言うまでもないな。あんたの芝居、色気が出てきたよ」
「光栄です」
「桜左衛門もそうだったからな、芙蓉さんに出会って艶が増した」
「そうでしたやろか」
「おかげで俺が振られちまったけどな」
「え!?」
つまりそれって、桜左衛門とお母さんを取り合ったってこと!?
森山さんの親子二代に言い寄られていただけでもすごいのに──
「やっぱりお母さんてジジ専──」
最後まで言う前に、手に持ったパンフレットで思いっきり頭を叩かれたのだった。
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