想い出は珈琲の薫りとともに
 薫さんが顔をゆっくり近づけ、コツンと額と額がぶつかった。そして私が握った手の甲を返すと、私の手を握り返した。

「……参ったよ。そんなことを言われたら離れられない」

「あっ、あのっ。薫さ……」

 表情の見えないその顔に呼びかけようとすると、リップ音を立てて額に口付けされた。

「どうしたんだい?」

 唇を寄せたままの薫さんに意地悪く尋ねられる。

 熱に浮かされたようなフワフワとした感覚。現実感などまるでなく、まだ夢の中を彷徨っているようだ。けれど、繋いだ手とまだ触れている唇の感触が、自分以外の熱を伝えてくる。

「流されなくていい。後悔することになるだろう?」

 ドクドクと脈打つ自分の鼓動を感じ押し黙っていると、諭すような声が聞こえた。

「流されたのかも知れません。でも、後悔は……してません」

 あのときを思い出し私は答える。
 確かに流された。外国のラグジュアリーホテルという非日常空間に。けれど、誰でもよかったわけじゃない。薫さんだから、その人となりに触れたからこそ応じたのだ。

「薫さんは……後悔しませんでしたか?」

 私たちはまだ、心の内を全部曝け出してはいない。冷静になれば、また別の感情も湧いてくるかも知れない。そう考えると怖い。けれど聞いておきたかった。

「……したよ。今でも。後悔ばかりだ」

 薫さんは重々しい口調で言葉を紡ぐ。けれど真っ直ぐに私を見ていた。
 
「君を離してしまったこと。そばで支えてこられなかったこと。風香の成長を一緒に歓びあえなかったこと。どれも後悔することばかりだ」

「一夜を共にしたことは? 後悔して……ないんですか?」

 それに薫さんは、先に態度で示した。
 頭から引き寄せられその広い胸に閉じ込められると、その腕に力がこもった。

「するわけないだろう? 言ったじゃないか。愛していると」

 一夜の夢じゃない。今、こうしているのは幸せな現実。だから私もそれに答える。

「私も……愛しています」

 どちらともなくゆっくりと、私たちは唇を重ねていた。
< 110 / 224 >

この作品をシェア

pagetop