想い出は珈琲の薫りとともに
「コーヒーを飲みにきただけだ。お前に迷惑はかけておらぬが?」

 すうっと清鷹さんの表情が冷たいものに変わる。来店されるたび見せてくれた穏やかな笑みはそこにはない。まるで別人なのかと思うくらいに。

「コーヒーならアルテミス(うち)でお出しします。とにかくお帰りください」

 それに清鷹さんは眉を顰めると息を吐き出した。

「と言うことだ。すまないが今日はこれで」

「そうですか。残念ですが、また」

 美子さんはそう返している。それに頷くと清鷹さんは私に視線を寄越した。

「騒がせてすまないね」

「いえ……」

 それだけを口にする。いや、できなかった。私に話しかけるお祖父様を見て、薫さんは眉を顰め不快感を露わにしている。何らかの事情でお祖父様がここに来ているのを知って慌てて来たに違いない。

「また寄らせてもらうよ」

 踵を返すお祖父様に私はお辞儀をする。

「ご来店……お待ちしております」

 こわばった声を絞り出す。緊張しているのを悟られたくなかったけれど、耳に届いた自分の声は思った以上に固い。

「これで失礼する。では。美子さん。……"亜夜さん"」

 私が凍りついてしまったことに、きっとお祖父様は気づかれている。このかたが知るのは苗字だけのはずだ。なのに今、名前を呼ばれたから。

 薫さんはわかっているのだろうか? 私が家で話した"素敵なお客様"がこのかただということを。
 お祖父様を伴い店を出て行く薫さんの姿を、どこか遠い出来事のように眺めていた。

「ごめんなさいね。桝田さん。久しぶりにお会いしたものだから」

「とんでもない。あの……。穂積……様とは、ご親戚、なんですか?」

 私は自分が聞いた名前とは違う名を出して尋ねる。美子さんはそれになんの疑いもなく答えた。

「えぇ。清鷹さんは姉の旦那様でね。私も姉も昔からコーヒーが好きで。……そういえば清鷹さん、姉が亡くなってからあまりお飲みにならなかったのに……」

(だから……薫さんは、好まれないって……)

 放心したまま、そんなことを考えていた。
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