想い出は珈琲の薫りとともに
5.cinque
 薫さんに偶然会ってから、本当は店に出るのが怖かった。私が勤めている店は井上さんが知っている。知ろうと思えばすぐ知ることができるはずなのだから。

 けれど、いまさらなのかも知れない。ローマで出会ったのはもう1年半も前。それから薫さんがこの店を訪れたことなど一度もない。そう思うと少し肩の力も抜け、私は普段通り仕事に勤しんだ。

 すぐにやってきたのは、ゴールデンウィーク。今までは保育園の都合で日曜日の出勤は免除してもらっていた。けれど、週のほとんどが祝日にあたるのに、自分だけ休ませてもらうわけにはいかない。休日保育や、真砂子のお母さんの『病院休みだから、私でよかったら家でみるわよ?』と言う有難い申し出のおかげで店に迷惑をかけないで済んだ。
 そして、その連休も乗り切ってまた日常が戻ったころ、それは起こった。

「えっ! 熱? 大丈夫なの?」

 早出だった真砂子から店に電話があったのは、私の勤務時間が終わった直後だった。

『ごめん、亜夜。明日、私遅出なんだけど、都合がつく人がいないらしいの。ふうはお母さんがみれるって言ってるし、明日勤務代わってもらえないかな? このとおりっ!』

 鼻声で辛そうな真砂子の声。電話の向こうで手を合わせている様子が目に浮かぶようだ。

「私のほうこそ、代わるのは問題ないよ。ふうを夜遅くまで見てもらうほうが申し訳ないというか……」

 遅出は閉店作業も含まれる。風香が生まれる前は私もシフトに入っていたが、帰宅が夜9時を回るから今は免除してもらっている。

『こっちこそ、本当なら明日休みなのに無理言ってごめん!』

「ううん? わかった。お大事にね。また明日、連絡する」

『ありがとっ!』

 とりあえず元気そうな真砂子に安心しながら、私は電話を切った。
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