冷徹外科医と始める溺愛尽くしの政略結婚~不本意ながら、身代わりとして嫁ぎます~
* * *

「行ってきます」

 室内に向かって言ってみたものの、返事はない。同居する母はこの時間は勤めている会社へ行っており、見送ってくれる人は不在だ。

 それでもこうして声に出すのは、私たち親子の間での決まりごとのようなもの。ふたりだけの家族だ。お互いの仕事ですれ違いも多いけれど、せめてひと言でも多く言葉を交わそうと決めている。
 その癖で、相手が不在のときでもこうして声をかけてしまうのは、母も同じだと聞いている。

 玄関を開けて空を見上げると、春だというのに全体的に薄い雲が覆っていて、どことなく憂鬱な気持ちになってしまう。

 築三十年近くになるというこのアパートの外装は、もともと真っ白だったのだろう。おそらく、これまで何度か塗り直しをされているかもしれないが、今目の前に見えている外壁はどこか薄汚れていて、ますます気分が沈みそうになる。
 そんな憂鬱な雰囲気を振り払うようにぎゅっとここぶしを握ると、足早に歩き出した。



「おはようございます」

「おはよう。(ゆう)ちゃん、今日もよろしくね」

 やって来たのは、自宅から徒歩十五分ほどのところにあるケーキ屋『かしの木』だ。
 店主の奥さんから無条件に向けられる笑顔が眩しい。

 私、坂崎(さかざき )優は、高校卒業と同時にこのお店に就職して、早くも四年以上になる。気づけばもう二十二歳だ。

 高校の同級生のご両親が営むこのケーキ屋は、昔から変わらない定番商品に加えて店主の考案する斬新なケーキが評判で、人足が途絶えない人気店だ。
 店内のアットホームな雰囲気も好評で、テーブルが三つしかないカフェスペースは、時間帯によってよく賑わっている。

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