冷徹外科医と始める溺愛尽くしの政略結婚~不本意ながら、身代わりとして嫁ぎます~
「優」

 阿久津さんが帰ると、一矢さんはリビングのソファーへ私を促した。さっきの電話はどうやら呼び出しではなかったようで、出かけはしないのだという。

 私が座ったのを見届けると、一矢さんもその隣にわずかな距離を開けて座った。

「良吾がすまなかった」

「いえ。もう十分謝ってくださったので、大丈夫です」

「それでも、君を泣かせたのはやりすぎだった」

 私がもっと打たれ強くて世間慣れしていたら、軽くあしらえていたのかもしれない。まして、泣くなんて子どもじみた事態にはならなかっただろう。
 こんな私が妻だなんて申し訳なくて、一矢さんの顔を見られないでいた。

「わ、私も、ちょっとしたことで泣きそうになるなんて……」

「いや。優はなにも悪くないから。それより……」

 隣から覗き込まれて、思わず視線を上げた。

「良吾に指摘されて気づいたが、優は一度も俺の名を呼んでなかったな。ああ、いや。そんな雰囲気を作らせなかった俺が悪いんだが……」

 気まずげに視線をさまよわせる一矢さんを、そっと見つめた。

「指摘されたから言うんじゃないが、こうして優が俺のところに来たのもなにかの縁だ。名前で呼んではくれないだろうか?」

 なかなかにハードルの高いお願いに、視線を泳がせた。なんとか言おうと試みるも、口が小さく動くだけで声にならない。

「嫌なら、いいんだ。もとはと言えば、俺がそうさせなかったんだしな」

 その様子を拒否したと捉えたのか、一矢さんは少し寂しそうに微笑んだ。

 決して、嫌なわけじゃない。勇気が足りないだけだ。
 今ここで呼ばなかったら、彼はもう二度とそう促してはくれないかもしれない。そう思ったら、途端に焦ってきた。

「い、嫌じゃなくて、そ、その……」

「嫌じゃないのか?」

 コクコクと首を縦に振ると。ほっとした様子の一矢さんは、懇願するような視線を向けてきた。

「それじゃあ、呼んでくれないか?」

「……い、一矢、さん」

 まるでもう一度とでも言うように、嬉しそうに微笑んだ一矢さんが私をじっと見つめてくる。

「い、一矢さん!」

「ありがとう。これからは、そうやって俺を呼んで欲しい」

 名前で呼んでも、本当にいいのだろうか? 一矢さんはよくても、嫌な思いをする人がいるんじゃないのかと思ったが、そこには気づかなかったふりをする。
 自分で自分の浅ましさが嫌になる。けれど本人が許可してくれたのだからと、一矢さんを言い訳にして自分を正当化させた。

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