エリート弁護士は契約妻と愛を交わすまで諦めない
振り向くと、朔が入ってくるところだった。目を膝に押し当てていた分、視界がぼやけて瞬きを繰り返すと、彼が首を傾げた。
「どうした?」
「へ!?いや、目にゴミが入って!朔、早かったね!」
泣きそうになっていたのを堪えていたとは言えない。話をすり替えると、朔は肩にかけたタオルで頭をガシガシ拭く。
「ああ、なんか停電でシャワーのお湯が出なくなったみたい。湯船にだけ浸かってきた」
「え、ぬるくなってなかった?」
「平気。お前のほうこそ、まだ髪乾かせてないだろ?」
「だ、大丈夫!タオルドライでわりと乾いてきたし」
「でも、ここ、だいぶ寒くなってきてるし。あたたかい飲み物もだめか」
朔がキッチンのほうを見て軽く嘆息する。IHだから停電中は使用できない。
私よりも朔が風邪を引かないかとひやひやしていたら、彼はスタスタと自分の部屋に行って、すぐに戻ってきた。腕に毛布を抱えて。
「これでも包まっとけばマシかも」
そう言いながら。私の身体にかけてくる。
え、私だけ!?
「朔こそ、あんまり身体あたたまってないでしょ?朔が使いなよ!」
「俺はいいんだって。身体もでかいし」
「風邪に体格はそんな関係ないでしょ」
「あるだろ。頑丈なんだよ。お前のほうが折れそうな身体して」
ぐいぐい毛布を押し付け合っていたのが、その言葉で私は固まった。さっき蓋をした記憶がまた息を吹き返して、ドロドロと胸中に染み出してくる。
「ごめん……」
「何が?」
「なんか、気持ち悪いもの見せちゃって」
「気持ち悪い?」
「私の裸、薄っぺらくて、骨っぽくて」
一拍間が生まれる。雷雨の激しい音がリビングに満ちて、途端に冷えた空気が突き刺さってくるようで堪らず俯く。
「え……気持ち悪いってそれかよ!?」
石みたいになっていた朔がソファーの背を越して身を乗り出してくる。あまりの勢いに私は仰け反った。
「全然、そんなことないって!そんなこと思うわけねぇだろ!気持ち悪いとか、そんなのっ絶対!」
「う、うん、ありがとう」
いきなりネジが巻かれた人形のごとく話すから、気圧される。そこまで否定されるとは思っていなかったから、逆に呆けてしまうほど。
「誰かにそう言われたのか?」
「……前の彼にね。私、働いてる時から食生活不規則で、どんどん食べられる量が減って、体重も減って。彼も驚いちゃったみない」
その後、気まずいながらも会いに行ったら、浮気現場目撃だ。本当に黒歴史。でも、一度もセックスしてなくてよかった。さらにダメージを負うだけだ。
結局、朔としかエッチしてないんだよね……。
そして、今はその彼と結婚したのに片想いとは、私の人生どうなってるんだろう。
はぁと溜息が出かけた時、朔が隣に腰を下ろす。
「俺はお前がまだ小さくて、まな板みたいに真っ平だったのも知ってる」
「うぐっ!」
真面目な顔からは予測できない台詞に、呑み込んだ唾が気管に入ってしまった。咳き込むと朔が背中を叩いてくれる。
「大丈夫か?」
「う、うん。っていうか、いきなり何?」
「いや、俺たち今更気持ち悪いとか思う次元じゃねぇなって。風呂場で石鹸踏んで転んで、尻打って泣いてるのも見てるし」
「ちょ、ちょっと!それ五歳の頃でしょ!」
「あの頃より断然女らしくなってるよ?別に全然骨ばってないしな」
「二の腕揉むな!」
たるたるに緩んだ二の腕を摘んでくる手を振り払う。確かに小さい頃は、うちのお風呂で何度か一緒に入ったりしたけど!あの頃と比べられたらそりゃ丸さはあるだろうけど!
「子供の時と比べても意味ない!」
「はいはい。っていうか、お前はもともとグラマーというより華奢で、あんま変わってな……」
そこまで言って朔が言葉を切る。
あんまり変わっていない……というのは、いつのことを指すのか。私がその答えに辿り着いた時、朔がふいっと明後日の方角に顔を逸らす。
「まぁ、クソ野郎の戯言だ。間に受けなくていい。っていうか、俺は何も見てないからな」
その頬が若干赤いのは見間違いではないはず。
絶対、さっき裸を見られている。だけど、それよりも気になることが出てきた。
朔はあの日のこと覚えてるってこと?
頭の中はそれでいっぱいになる。あまりにも普通に接してくるから、一度だけの情事なんて忘れているのかと思っていた。私だけの思い出だと。
そう考えると途端に緊張で背筋が伸びる。
だって、てっきり覚えてないと……あれ、どうしよう。どんな顔をすればいいの!?
軽くパニックになっていると、肩に朔が毛布を掛けてくる。びっくりして固まる私の横で朔も毛布を羽織り、二人の前で端と端を重ね合わせた。
「こっちのほうがお互いあたたかいだろ。怖いか?」
「う……ううん」
怖くない。全然、朔なら安心できる。
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