オスの家政夫、拾いました。3. 料理のガキ編
林渡くんが彩響の手の甲を指す。言われてやっと、そこに結構長い切り傷ができていることに気がついた。母が投げて割れたお皿の破片で切れたのだろうか。血が流れるのを見ていると、林渡くんが彩響の手を引っ張り、リビングのソファへ座らせた。彼が救急箱を持ってくる頃には、もう玄関の方は静かになっていた。


「一旦応急処置しよう。結構血出てるから、後で病院行こう」

「……」

「ー彩響ちゃん!」


自分を呼ぶ声に、ぱっと顔を上げる。目の前には林渡くんが怪我した手をぎゅっと握っている。彼は長い溜息をつき、傷口にガーゼを当てた。


「…ごめん」


どうして林渡くんが謝るのか、よく分からない。彩響の表情を読んだのか、林渡くんが苦しい声で話を続けた。


「俺が余計な提案をしたから、こんな思いしちゃったよね。…だから、ごめん」

「ちがう、それは…!」

そこまで言った瞬間、目から涙がこぼれ落ちた。この日のために頑張ってきた日々や、料理を作った瞬間、そして母にまたひどく責められてしまった瞬間まで。すべてが一気にフラッシュバックして、頭の中をぐるぐる巡る。彩響はあふれる涙を我慢できず、顔を下げた。ぽたぽた落ちていくしずくがズボンを濡らし、どんどん涙の跡が広がるのが見えた。


「…うまくいくと思ったのに」

「……」

「ここまですれば、分かってくれると思ったのに。きっとお母さんも応援してくれると思ったのに…お母さんに、お母さんに…」


「愛されている」と確認できる、そう信じていた。暴言を吐かれても、酷い扱いをされても、それでも産んでくれたから、育ててくれたから、最後の一線は守ってくれると思った。

でも、戻ってきたのは痛いほど冷たい現実で、もう希望の欠片も見当たらない。

溢れる涙を抑えきれない彩響の顔を、林渡くんはずっと手を握ったまま見守っていた。彼はただ辛い顔で、言い続けた。


「ごめん…」

「…っ…」

「ごめん、俺、なにもできなくて…」


林渡くんの謝罪に、言ってあげたかった。あなたがここにいて本当によかった。今ここに一人だったら、本当にどうなったのか分からない。

心に秘めた思いは、溢れ出す涙につまり声には出なかった。彩響は手を握られたまま、何時間もその場で涙を流した。

目を開けてみるともう時刻は午前7時を過ぎていた。彩響はベッドから体を起こし、鏡で自分の姿を確認した。


「…酷い顔」


昨日は本当に散々な日だった。母が帰った後、病院に行って手の甲の治療を受けた。結構深い傷だったので、5針縫って包帯も巻いた。その後は疲れて、家に帰ってきてそのまま寝てしまった。

寝落ちる直前まで泣いていたせいで、頭がすごく痛い。両手で頭を支え苦しんでいると、リビングから物音が聞こえた。彩響はフラフラしながら部屋の外へ出た。自分の荷物を玄関まで運んだ林渡くんが彩響を見て声をかけた。


「おはよう、寝れた?怪我はどう?」

「あ…おはよう。大丈夫。…家、片付けてくれてありがとう」


戦場だったキッチンはなにもなかったかのように綺麗になっていた。嫌な記憶を思い出さないように、なるべく痕跡を残さないようにした彼の心遣いがありがたい。林渡くんは顔を横に振った。


「大したことないって。俺、今日まではこの家の家政夫だから」

「そう…それでも、ありがとう」

「どういたしまして」

荷物を見て気づいた。そうか、今日は彼が出る日だったんだ。林渡くんが家政夫をやめるってことはもうとっくに知っていたのに、いざこの日が来るとその事実を否定したくなった。旅立つ日には必ず「頑張って」とか、「応援してる、有名なシェフになるんだよ」とか、優しい言葉をかけてあげると思ったのに、今は疲れすぎてそういうことを言う気力すらない。林渡くんもそんな彩響のことを気遣って、なにも言わず玄関に向かった。靴まで履いて、彼が言った。


「病院から貰った薬、ちゃんと飲んでね」

「うん」

「定期的に別の家政夫が来るから。ちゃんとご飯食べてね」

「うん」

「それから、くれぐれも無理しないようにー」

「大丈夫。心配しないで」


彩響の返事に、林渡くんは口を閉じた。そしてそのまま荷物鞄を手に取り、玄関のドアノブを握った。そのまま出るのかと思ったら、彼は彩響の方へ体を向き回し、こう言った。


「彩響ちゃん、今言いたいことは山程あるけど、あえて言わないでおくよ。俺は今なにもやってあげることができないから。でも、これだけは言わせて」

「……」

「彩響ちゃんは、お母さんに愛されるため生まれてきたわけじゃないから」


そのまま林渡くんは玄関を開け、外へ出た。扉が閉ざされ、足音が消えた後も、彩響はずっとその場で立っていた。でも、結局その場に座り込み、膝へ顔をうずめた。

薄暗い家の中、静まった空気を感じる。もう林渡くんはいない。長年抱いてきたこの苦しい感情を分け合う人は消えてしまった。彩響はそのままさっき言われた言葉を思い出した。

ー「お母さんに愛されるため生まれてきたわけじゃないから」


その言葉がずっと耳元で回る。でも、なんの慰めにもならない。一回でも良いから、たった一度でもいいから…。こんなに酷い扱いをされたにも関わらずまだこう思ってしまう自分が悲しくて、彩響はギュッと歯を食いしばった。手の傷より、今は心の方がもっと痛かった。
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