婚約者に裏切られたその日、出逢った人は。
「舞台はあっちの、もう少し先ですね」
「そうなんですか」
まだしばらく歩かなければならないと知り、やや落胆したものの、朝海は疲れを声に出さないようにした。
履き慣れない靴で長い坂道を、ゆっくりと言えども上ってきたため、さっきから靴擦れのような痛みを感じていた。だが厚意に甘えて案内してもらっている以上、そんなことは口に出せない。
これまでの道に比べると人の混み具合はゆるやかだったが、背中に添えられた(というよりは引き寄せている)手はほどかれていない。今となっては、それがむしろ有難かった。多少は足の痛みを我慢して歩くことができる。
石段を登り、仁王門と呼ばれる門をくぐると、敷地の奥へ続く道がある。その先に、テレビや写真で見たことのある「清水の舞台」らしきものが見えた。
目的地が見えると、さっきよりも気分は楽になった。相変わらずこちらに合わせてゆっくり歩いてくれる聡志に、無意識のうちに朝海は、半ば体を預けるようにしていた。
たどり着いた場所には、料金所があった。どうやら拝観料を払わないといけないらしい。
ごく自然に、何も聞くことなく、聡志は二人分の料金を支払う。
そうして足を踏み入れた「清水の舞台」からは、京都の町と山々が一望できた。
青い空はどこまでも広く、うっすらと姿を現した雲がたなびいている。
おそるおそる、朝海は聡志とともに、欄干に近づいてみた。下を覗きこまずとも、近づいただけで、恐れを感じさせるに十分な高さだった。ちらりと見えただけでも断崖絶壁のほどがわかる。
よく、こんな場所にこんな物を建てようと、誰だか知らない昔の人は思ったものだ。
だがこんな場所にあるからこそ、覚悟のほどを表すたとえとして『清水の舞台から飛び降りる』という言葉が生まれたのだろう。
……本当に飛び降りたら、どうなるか。良くて大けが、悪くすれば命が無いだろう。
それほどの覚悟を決めなければならない状況なんて、人生で何度もないだろうけれど……
その、何度もない状況に自分は今、いるのかもしれないと朝海は思った。
文字通り、どん底と感じる所まで突き落とされた。
だけど、あくまでも心だけで、体は無事だ。心だって、自分の気の持ちようで、これからいくらでも這い上がっていけるはず。
むしろ、今が一番の底であるなら、あとは上がるだけなのだ。
あんな男に二年も費やしたのはやっぱり悔しいけど、二年だけで済んでよかったと思おう。